第二百六十一夜 高野ムツオの「春の月」の句

 昨日、岩手県北上市の詩歌文学館館報「詩歌の森」第89号が届いた。ここへは、「花鳥来」と「屋根」の合同吟行で訪ねたことがあった。岩手県には石川啄木や宮沢賢治がいる。辺りから風の又三郎が出てきそうな中をゆくと詩歌文学館の一角には、移築された山口青邨の「雑草園」があり、書斎の青邨の籐椅子に代わり番こに座ったり、その後で合同句会をした。
 詩歌文学館は、「平成の万葉の館」を経て、詩、短歌、俳句、そして川柳さまざまな詩形の「令和の万葉の館」として、今年開館30周年を迎えた。高野ムツオ氏は、その館長になられた。
 
 「詩歌文学館の未来へ向かって」の挨拶文で、高野ムツオ氏は次のように述べている。「期を同じくして、新型コロナウィルスの厄災がふりかかった。天が試練を与えてくれたと思った。詩歌は逆境にあって、その逆境を発条として力を発揮するものだから、あせらず進んでいきたい。」
 高野ムツオ氏の作品は、じつは私は、東日本大震災の作品がクローズアップされてから読みはじめたのだが、東北地方の昔から絶えず襲われた飢饉や凶作などの苦闘の繰り返しも、東日本大震災も、今回のコロナ禍も、どこか似通っているように思う。いつ襲いくるのかわからないことも、先の見えない状況も、防ぎようのなさも、どこか似ている。
 
 今宵は、まず東日本大震災の句を含む第5句集『萬の翅』を見てみよう。

  車にも仰臥という死春の月
  四肢へ地震ただ轟轟と轟轟と
  村一つ消すは易しと雪降れり 
  清水汲む見えぬ無数の手に添われ

 一句目、この一群の作品は、私たちがテレビに縋り付いて見ていた光景である。車が、仰臥の姿勢―つまり逆さまの状態で津波に流されて動いてくる。まさに車の死の姿である。茨城県に住む私たちも揺れが収まった夜に外に出てみると、驚くほど透き通った夜空にまあるい月が浮かんでいた。月の心であろう。
 二句目、茨城県は震度6弱といわれたが、さらに高野ムツオ氏の住む地では、四肢を伝う揺れは「轟轟と轟轟と」という激しさであったろう。
 三句目、「村一つ消すは易しと」は、北国でなければ想像できない豪雪地帯の雪の怖さを感じるが、本当に、村一つを消すのは容易いことである。
 四句目、山奥の冷たい清水を汲んでいるときの、感じであろうか。怖いような、やさしさに包まれていくような、不思議がある。

  月光の音枯蘆の音となる
  満開の嗚咽ばかりや花の闇
  億万の翅が生みたる秋の風

 一句目、枯蘆に月光が差し、ふと揺れ始めた枯蘆の音を月光の音と聞き留めた。
 二句目、満開の夜桜を見上げていると、花たちが一斉にむせび泣いているように感じた。花の闇であった。
 三句目、とんぼ、いなご、ばった、などの透けている翅を持つ億万の虫たちが、一斉に翔んでゆくのは、秋の風が生まれるからなのか、それとも秋の風になりたいからだろうか。

 『萬の翅』のあとがきには次のように書かれている。
 「漠然とだが、この世を去る途中には、少なからぬ艱難が待っていると心していた。だが、それは想像をはるかに凌駕するもののようだ。この先の関門も五里霧中にある。混沌とは死ぬまで、いや死後もまた続くものであるらしい。ともあれ、非力ながら、今後も生きてある瞬間瞬間を刻んだ俳句を目指していきたい。」

 高野ムツオ(たかの・むつお)は、昭和22年(1947)、宮城県栗原市生まれ。國學院大學文学部文学科卒。俳句は、小学生の頃から父に連れられて句会に参加し、高校時代に阿部みどり女の「駒草」に投句していた。大学卒業後、金子兜太の「海程」所属を経て佐藤鬼房に師事。昭和60年、佐藤鬼房の「小熊座」が創刊され、翌年より校正に携わる。昭和62年、第1句集『陽炎の家』により、第24回海程賞を受賞。平成5年、第2句集『烏柱』出版。平成6年、宮城県芸術選奨、第44回現代俳句協会賞を受賞。平成14年、佐藤鬼房の逝去ののち「小熊座」を主宰。平成23年の東日本大震災の作品を詠んだ、平成25年刊の第5句集『萬の翅』により、第48回蛇笏賞を受賞。蛇笏賞は戦後生まれ初の受賞者。また深見けん二『菫濃く』と同時受賞であった。