加藤楸邨の句風とは、水原秋桜子の「馬酔木」調を脱して内面的苦悩の色を濃くしたもので、難解句と言われるようになった。「人間探求派」と名付けられたのは、昭和14年「俳句研究」8月号の座談会での発言からである。この座談会の司会は山本健吉であった。
この席で楸邨は、次のように述べている。
「俳壇の大勢が今までの方向に於て一種の飽和状態に達してゐる。一面完成に近づいてゐる。さういふ方向では言へなかつた「生活からの聲」が盛り上らうとしてゐる。その聲はまだ充分形態をとりえないといふ状態のあることはたしかです。」
「現在俳壇に動いてゐる一つの形をとつた人々の傾向に比較すれば、少くとも私の求めようとしてゐるものなど、丁度カオスの状態だ、すでに出来上がった俳句的なものの中から一句にまとめるのではなく、今まですてられてゐた俳句になつてゐないところから切りとりたい―然しそこがまだカオスの状態だ。」
この時代の俳壇は、「ホトトギス=俳壇」といわれる高浜虚子の巨大勢力であった。
「人間探求派」「難解派」という呼び名は新鮮に響くが、それ以上に「俳句研究座談会」での楸邨の言葉から、新しさの俳句に向かって、歩を進めようとしている覚悟と苦悩の深さを感じた。
改めて、作品から感じてみたいと思った。
今宵は、カオスの状態だという楸邨俳句を見てみよう。
鰯雲人に告ぐべきことならず 『寒雷』
一句目、「鰯雲」と「人に告ぐべきことならず」は衝撃的な取り合わせであり、これまでの俳壇では使われなかった季題の使い方である。
「鰯雲」は、大空を覆うかのように白い鱗の形をした雲が大海のさざ波のように動いて進んでくる。意図せぬものが押し寄せてくるようであり、楸邨の微妙な心の動きとなって伝わる。
昭和12年には日中戦争が始まり、思想弾圧があり、軍国化はますます激しさを増していた。
鰯雲はどこからともなく聞こえる軍靴のようでもあるが、当時は、良心に従って知識人として何か物が言える状況ではなかった。
寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃 『寒雷』
蟇誰かものいへ声かぎり 『颱風眼』
一句目、「寒雷」は冬の雷のこと。重苦しさの増す時代の最中、冬の雷を「寒雷」という激しさを感じさせる造語にしたことで、楸邨は、自分の鬱屈した「こころ」を俳句に留め得たと感じた。
掲句は、第1句集『寒雷』の巻末に収められ、昭和15年、楸邨は「寒雷」を創刊主宰する。
二句目、季題「蟇(ヒキガエル)」は、一句目の「鰯雲」と同じ働きをしている。寡黙で不気味で大きく存在しているのが「蟇」。この二つは、物の言えない社会状況を象徴させたものであろう。
「ホトトギス」を離脱して、新興俳句の拠点となったのが秋桜子の「馬酔木」であったが、楸邨は、新興俳句を目指していたわけではなかった。
楸邨は、独自の句風を追求し続けていった。やがて、俳句の発想契機を求めて芭蕉研究をはじめた中で得たのが、「真実感合」という作句理念である。自己の真実と対象の真実とが一体化する境を、自己の俳句発想の基盤としたもので、後の「ひとりごころ」「まこと」などと同じである。
楸邨にとっての俳句は、自然を詠むものでも季題を詠むものでもなく、自己との一体化であった。生活状況の中で悩んでいる今の自分を、どうにかして俳句に留めたいと、楸邨はつねに苦悶していた。
「人間探求派」の中でも楸邨と草田男の作句法は、今ある自分の存在の意味をつねに問いながら作句するという方法であり、それは「実存的作句法」と言えるのではないかと思っている。