第二百六十四夜 三村純也の「賀茂祭」の句

 『観自在』の句集を頂戴していた。まず、タイトル『観自在』の意味を調べてみた。
 あとがきには、次のように書かれている。
 「観音菩薩のことだという。自在に衆生の苦を察知し、それを度し合う菩薩ということかと思う。」
 「度する」とは、仏が衆生を迷いから救うことであろう。
 芸能、中世文学、民俗学、近代俳句史を学び、仏教観にも造詣が深く、多岐にわたる三村純也氏の世界を、いくらかでも読み解けることができれば幸いである。

 今宵は、第4句集『観自在』を中心に作品を紹介してみよう。

  馬楽しげ牛はかなしげ賀茂祭 『観自在』

 賀茂祭(葵祭)は、京都市の下鴨神社と上賀茂神社で、5月15日に行なわれる例祭。行列を先導するのは騎馬の三騎、この馬の足の動きが軽やかで楽しげなステップなのであろう。次の牛車(ぎっしゃ)は、御所車といわれ、勅使の乗る車で、藤の花などを軒に飾り、牛に引かせる。晴れがましく飾られている牛の、大きな目とゆったりした動作を、純也氏は「かなしげ」と捉えた。
 
  酒の鬼煙草の鬼もやらふべし 『観自在』
  なにゆゑの妻の不機嫌春の雷   々

 一句目、季題が「鬼やらい」であることに気づくや、わが家にもこのような酒の鬼と煙草の鬼を併せ持つ鬼がいることを思った。「やらふべし」は「追い払うべきである」であるが、いかなる手立ても効果はない。
 二句目、妻が不機嫌なのは、何を言っても馬の耳に念仏の夫のせいなのだが、夫というものは、妻が不機嫌な顔をして黙り込んでしまうことが、一番の苦手のようだ。ならば、常日頃から妻の言うことにも少しは耳を傾けていて欲しいのだが。
 二句を並べてみたら、どこの家庭にもありそうな火種と地雷である。

  振米の音の止みたる深雪かな 『観自在』
  
 掲句は、純也氏が若き日に各地へ民族採集の旅をした折の記録をもとに30句を構築した「振米―採訪手帖より」の作品の一つ。
 長い前書があり、そのままが句意となっているので紹介しよう。
  竹筒に入れたる米を振りて、その音を臨終近き人に「銀しゃりぢゃぞおい」とて聞かせつつ、往生せしむ。米穫れぬ寒村の習ひなり。
 この哀切な風習を、俳句の形に遺したことはすばらしいことだと思った。

  虚子五十回忌正法ここにあり 『一(はじめ)』

 平成21年4月8日は、虚子五十回忌であった。「ホトトギス」では様々に催しをしたが、私は、横浜の神奈川近代文学館で催された、虚子没後五十年記念の企画「子規から虚子へ」展を観に行った。
 「正法」とは、仏教で正しい教えのことで、釈尊の滅後、その教えと修行実践とその結果としての悟りがすべてそなわっている時代のことをいう。
 つまり、虚子が正岡子規の没後から、およそ50年をかけて「ホトトギス」誌の中で、虚子が先頭に立って会員とともに実作として作り上げたのが「花鳥諷詠」であり、その方法論が「客観写生」である。虚子が亡くなって50年目となった今も、師の虚子の教えは変わることなく受け継がれている。
 純也氏は、「正法ここにあり」と言い切った。そして第5句集『一(はじめ)』に収めた。

 三村純也(みむら・じゅんや)は、昭和28年(1953)、大阪市生まれ。俳人。戦国武将三村親成の子孫。慶應義塾大学文学部国文学科卒業、同大学院文学研究科国文学専攻博士課程修了。芸能、中世文学、民俗学、近代俳句史などを専攻。平成20年より大阪芸術大学教授。俳句は、中学時代から始め、昭和47年、ホトトギス系の「山茶花」に入会、下村非文に師事、清崎敏郎、稲畑汀子の指導を受ける。平成9年より「山茶花」主宰を継承。平成14年、第3句集『常行』で第26回俳人協会新人賞。2019年、第5句集『一(はじめ)』で第34回詩歌文学館賞。その他の句集に『Rugby』『蜃気楼』『観自在』がある。