第二百六十五夜 高浜虚子の「楓林(ふうりん)」の句

 千葉県君津市にある鹿野山神野寺に虚子の歯塚が建立され、昭和33年7月20日にその歯塚除幕式がとり行なわれた。
 神野寺というのは、ホトトギス同人の川名句一歩(かわな・くいっぽ)や山口笙堂(やまぐち・しょうどう)がそれぞれ三十二世、三十四世として住持していた寺で、昭和29年から33年までの5年間行われたホトトギス夏行句会は笙堂和尚の肝入りであった。
 歯塚句碑建立の話は、かつて虚子が医科歯科大で歯を抜いたとき居合わせ、その歯を保管していた田中憲二郎博士の発案で、山口笙堂の神野寺住職昇格就任祝いの席上でなされた。

 今宵は、虚子晩年の句集「七百五十句」から紹介しよう。

    歯塚
  楓林に落せし鬼の歯なるべし 「七百五十句」
  

 掲句の鑑賞の前に、私は、この目で鹿野山神野寺と歯塚を見ておきたかった。
 元日のハイウェイは空いてをり10時頃には到着したが、神野寺は正月の参拝客で賑わっていた。鹿野山中腹のマザー牧場の入口を過ぎたあたりから多くなった杉木立は山寺を囲み、曇りがちの寺領全体が初霞の中にすっぽり入ったようであった。
 
 仁王門をくぐり本堂に手を合わせたのち、句碑を目ざして宝物拝観所の門を入った。さらに講堂脇の門を抜けると江戸式庭園で、立札の向こうに赤石の大きな歯塚があった。躑躅が大きく茂り、角度によっては「歯塚」の文字は隠れるほどであった。そのとき、御降り(おさがり)の大粒の雨がぽつぽつと落ちて句碑を濡らすと、最初は読みにくかったあの「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」の文字がくっきり浮き出てきた。
 講堂から宿坊への道々に建てられている芭蕉、立子、青邨、素十などの句碑群は、かつてここに集った夏行句会を彷彿させてくれた。

 掲句は、句碑除幕式後の句会に出句されており、他の句は当日の『句日記』によると次の句である。
  歯塚とはあらはづかしの落葉塚
  我生の七月二十日歯塚立つ
  山寺は唯一陣の青嵐
  我生をぬりつぶしたる青嵐
  楓林に落せし鬼の歯なるべし

 次のようにして掲句は成ったのである。
 虚子は、句碑開きの儀式を傍らの椅子に座って眺めていたが、この日は風が強く、庭園をかこむ竹林から竹落葉が舞い降り、楓など柔らかい青葉若葉をそよがせていた。
 歯塚は、碑の後部に虚子の歯が埋め込まれ、碑の右上に「歯塚」、中心にこの神野寺で行われた昭和29年夏行句会で詠まれた〈明易や花鳥諷詠南無阿弥陀〉の句が、虚子の文字で書かれている。
 虚子は、『俳録歯塚』の序にあるように、皆の厚意を受けたものの「歯塚という名前に心が落ち着かなかった」のであった。
 一句目の「あらはづかしの」と、まるで能か歌舞伎の女人の言葉遣いをしてみたり、建立したばかりの歯塚句碑を落葉に埋もれた古い塚であるかのように「落葉塚」と言ってみたり、どうにも照れくさい虚子の気持ちが感じられる。
 
 そのとき、一陣の強風が虚子の頬を撫でた。
 
 虚子に幻想が過ぎった。青嵐は大鬼が楓林を駆けぬけるときの風で、このとき鬼がぽろりと歯を落としたという幻想である。
 歯塚に虚子自身の歯が埋められていると思えばどこか気恥ずかしい。
 しかし、この大きな赤石の歯塚そのものが大鬼の落とした歯であるという想いが虚子に宿るや忽ち、能における後シテの舞のごとく、花鳥に遊び解き放たれた虚子翁が現れたのだ。歯塚建立も何かの縁であろう、このように発想の転換がなされ、歯が「鬼の歯」へと詩的に昇華されたとき、花鳥諷詠は極楽の文学であるという証となったのかもしれない。
 
 掲句を得て、虚子は「私の心は落着いた」と納得した。
 比叡山には、すでに髪と爪を納めた虚子塔がある。最初はさほど乗り気でなかった虚子だが、皆の思いを受けたという感であった。