第二百七十一夜 松尾あつゆきの「焼死証明」の句

 昭和20年8月9日、アメリカの原子爆弾の2発目が長崎市に落とされた。広島に落とされた8月5日の1発目に続く第2発目である。昭和20年は、私の生まれた年でもあるし、戦後◯◯年といえば、即ち私の年齢となる。
 
 今回の旅の2日目は8月5日、長崎市内の平和祈念像へ直行した。広々とした公園は、4日後の8月9日の被爆75年周年長崎平和祈念式典へ向けての準備の真最中であったが、青空の広がった平和祈念像の前に立つことができた。
 何度も見ている像であるが、筋肉隆々の胸も腹筋も、今日は美しく輝いている。なぜだろうと見続けているうちに、そうだ、像はきっと洗いたてなのだと思った。公園内には幾つもの像があるが、どれもきれいに磨かれている。
 
 多くの人が準備で忙しくしているので、私たちは次の目的地の長崎原爆資料館へ向かった。
 もう50年前、3年間勤務した活水高等学校の同僚と、市内見物をした中に、原爆傷害調査委員会(ABCC)が公開した写真展があった。ABCCとは、広島・長崎の原爆被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国学士院-学術会議が行うべきであるとするトルーマン米国大統領令を受けて設立されたものである。
 この時に見た、54枚の写真の悲惨さ壮絶さは、目を背けたくなったほどであった。
 だが今回の長崎原爆資料館展示では、その中の数枚だったように感じた。ビデオルームで被爆記録の中にも米軍機から撮影したきのこ雲を見た。落とされた爆弾は長崎型爆弾ファットマンと呼ばれ、プルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こすものだった。一方、広島型爆弾はリトルボーイと呼ばれ、ウランによる核分裂を起こすものだったという。
 8月6日に広島での大惨事を起こした直後に、それでも2発目を、異なる型の爆弾を試してみたかったという科学者や国家の怖ろしさを思った。
 
 資料館を辿ると、展示ケースの端に、松尾あつゆきの俳句が10句ほど書かれた一枚の和紙を見つけた。慌ててノートに書き留めたが、全てではなかった。
 私が、自由律俳句「層雲」主宰の荻原井泉水門下の松尾あつゆきの作品に触れたのは、拙著『図解 俳句』の戦後の焦土俳句を調べているときであった。拙著には、長崎原爆の投下で妻と3人の子を亡くした松尾あつゆきの〈この世の一夜を母のそばに月がさしている顔〉を紹介した。

 今宵は、原爆俳人と呼ばれる松尾あつゆきの作品を紹介しよう。
 
  臨終(いまわ)木の枝を口にうまかとばいさときびばい
  この世の一夜を母のそばに月がさしている顔
  あわれ7ヶ月の命の花びらのやうな骨かな
  降伏のみことのり妻をやく火いまぞ熾りつ
  なにもかもなくした手に四まいの焼死証明
  
 一句目、自宅で原爆に遭ったのだろう。父は、「うまかとばい、さときびばい」と、息を引き取る間際の幼き子の口にサトウキビの汁をあてがった。
 二句目、3人の子たちは亡くなる間際まで母に近づき、乳をまさぐり、母にほほえんだ。午前11時2分に落とされた原爆で、苦しみながらも子と母は、ひたと寄り添っていた。月光が一家を包み込むように照らしていた。
 三句目、いちばん幼い子は7ヶ月。父は、木切れを集めて自らの手で焼いたという。
 四句目、母は、3人の子を見送って最後に亡くなった。ラジオから流れる終戦の詔書を聞きながら、夫あつゆきは、子と同じように、自らの手で妻を焼いたのだ。
 五句目、子を3人、妻、家を失くしたあつゆきの、なにもかもなくした手にあるのは、役所でもらった焼死証明であった。唯一の救いは、長女が重症であったが、父とともに生き延びたことである。
 
 こうして、句の説明をしていると、原爆資料館にあるアメリカ側の集めた写真の一枚一枚がまざまざと蘇ってくる。
  
 松尾あつゆき(まつお・あつゆき)は、明治37年(1904)、長崎県出身。現在の長崎大学在中に自由律俳句に傾倒し、24歳で「層雲」に入会し、荻原井泉水に師事する。昭和20年、生地長崎で原爆に遭い、家と妻、4人の子供のうち長男、次男、次女の3人を失う。11月、重症を生き延びた長女とともに佐世保市に転居。句集『原爆句抄』は生き延びた長女の息子の平田周編による。