第二百七十二夜 あらきみほの「グラバー邸」の句

 8月5日、長崎旅行の2日目。平和公園、原爆資料館、日本二十六聖人の像を見た後は、夫の姉がセッティングしてくれたホテルニュー長崎の13階にある「中華料理 桃林」へ行った。見晴らしがよいのに、美味しいコース料理の合間はお喋りばかりしていた。
 
 午後の予定は、行きそびれていた出島へ向かう。鎖国政策の間、貿易国は唯一オランダだけ。出島は、貿易掌握のためとキリスト教の広がりを抑えるために、海を埋め立てて築造した島である。現在は地続きだが、当時、出入りは表門と長崎の町をつなぐ中島川の橋だけであった。
 
 表門を潜ると道の両側に家々が並んでいる。1階は日本風、2階はオランダの商館員の住居、カピタンの部屋、畳敷きの上に絨毯が敷かれていたり生活用品も独特であった。一風変わった建物である。
 
 この日は、35度の猛暑で、出島の端から端まで元気に闊歩し見学したのは、娘だけであった。
 出島で思うのは、シーボルトと遊女であったお滝さんの恋と二人の間の娘、後の日本初の女医のイネのことである。日本人は勝手に出島に入ることはできないが、遊女は特別であったようだ。シーボルトは、医者であり博物学者であり植物学者でもある。帰国する際、日本の花を押し花にして持ち帰ったが、その中に、アジサイの花があった。お滝さんの名に因んで「おたくさ」と名付けたという。
 
 次は、長崎市の中腹にあるグラバー園だ。杖の身の私は、暑さで坂道を登れそうもない。

 私は、およそ10年前の平成21年の10月に長崎を訪ねた折のことを思い出していた。この時は、私の従姉妹とグラバー邸や浜の町を散策し、翌日は、夫の友人の車で野母崎から外海(そとめ)へ行った。
 長崎で教員をしていた時代、夫たちは県立高校の仲間と青年教師の会を作っていた。よく遊びよく飲み、当時結婚していた我が家は溜まり場であり、運転免許を持っていた私は、みんなの運転手であった。
 その一人、もう数年前に亡くなられたが、俳人の遠山博文さんが、野母崎の山奥の隠れキリシタンの教会や外海にある隠れ里を案内してくれた。
 だが遠山さんは、驚くほどの運転ぶり。女医である奥様が、ぶつかってもビクトもしないようにとフォルックスワーゲンを買ってくれたという。野母崎では狭い路地に嵌り、細道の隠れ里ではバックしながら危うく谷に落ちそうになった。うーん、夫の友人と心中することになるのかしらと私が呟くと、光栄ですと、遠山さんは呟いた。
 笑いながら、諫早市の夫の妹の家まで送り届けてくれた。
 
 今宵は、10年前の長崎の句を、紹介させていただく。
 
  屋根裏の鏡の冷ゆるグラバー邸
  秋の空どこかで交じる秋の海
  隠れ里どこもほそみち曼珠沙華
  望の夜の折鶴の束ふくらめる
  いもうとの夫はおとうと銀やんま

 一句目、今はグラバー園と呼ぶが、当時はグラバー邸、と言っていた。タイルを敷き詰めた庭にはハート型のタイルが1枚あるという。見つけると恋が生まれるとか・・必死に探す気持ちがたのしい。
 グラバー邸の隅々まで見ると、屋根裏部屋があり、誰が使うのか鏡が置かれていた。
 二句目、長崎半島の突端の野母崎である。ここは果てしない海と空があった。遠山さんが住んでいた頃、よく車で送り届けた。
 三句目、この隠れ里は、密かに隠れキリシタンたちが集った場所のようだ。2畳ほどの小屋には、資料が置かれていた。
 四句目、長崎市に住む姉が平和公園へ連れて行ってくれた。長崎原爆忌の2ヶ月後であったが、折鶴の束が幾重にも重なっていていた。満月が登りはじめていた。
 五句目、令和2年の今回の旅は、何もかも妹夫婦にお世話になった。一人っ子の私を、「ねえさん」と呼ぶのは妹の夫だけだが、すこしこそばゆく、なんだか嬉しくなる。「銀やんま」の季語を改めてしらべると、「雄」だとわかってホッとした。