第二百七十五夜 大井雅人の「黄金虫」の句

 大井雅人を知ったのは、蝸牛社の編集の過程では秀句三五〇選シリーズの『虫』や『夢』、そして父の書棚に、立風書房の『現代俳句案内』を見た時である。
 今回読み返して思ったのは、30年前の、わさわさした筆者の私には、受け止めることができなかったということであった。
 大井雅人の柔らかな清潔な感性は、70代半ばになった私の心に、今心地よく響いてくる。
 
 今宵は、まず、当時の編著者の宮坂静生先生と友岡子郷先生の鑑賞の助けを借りながら、紹介させていただく。
 
  麦刈りの背に翅はなし黄金虫 『龍岡村』
  ほうほうと声あげて桃花ひらく 『消息』

 一句目、大井雅人の実家はお寺だというが、米や麦や野菜などは自家栽培であった。6月の頃、雅人は麦刈りを手伝っている。ずっと腰を曲げての作業は辛い。人の気配を察知した黄金虫が隠れていた穂麦や麦束から翅を割って飛んでいった。ああ、僕の背にも翅があったら楽になるのに、だがそうはいかない。
 二句目、山梨県は桃の産地。中央自動車道を走ると、桃畑の見えるところがある。見学できるので、ハイウェイを外れて桃園に行ったことがある。
 「ほうほう」は、桃園の桃の花が一斉に咲き出すころで、作者には、まさに莟が声をあげているように感じたのだ。
 
 次の作品は、立風書房『現代俳句案内』は作者の大井雅人が自註している。助けも借りながら、考えてみたい。
 
  少年の顔月光を得て消ゆる 『龍岡村』
  父の声今も雨中のかたつむり 『龍岡村』
  きさらぎや銀器使われては傷を 『朱の寺』
  
 一句目、早春のまだ肌寒い夕暮れ、雅人は新聞配達の少年とすれ違った。少年は夕刊を小脇に抱えて走り去った。すれ違った一瞬の顔を月光が照らし出した。寒さを感じることで、月光も少年の顔も、際やかに輝いた。
 二句目、自註には、父が亡くなって密葬の日のことだという。「父の声今も」「雨中のかたつむり」と二句一章の作品。亡き父の声が今も聞こえる。否、父の声も父の言葉も、作者は必死に思い出そうとしているのだろう。だが雨中のかたつむりは一言も発することはない、
 三句目、大阪でのあコーヒーラウンジでのこと。きびきびと働くボーイさんが、著者の前に置いた銀製のミルク入れは、よく磨かれてはいるが小さな傷と凹みがあった。この傷を、お客に対して失礼と感じるか、よく使い込んだミルク入れだなあ、どんな人たちのコーヒーに添えて出されたのだろう、と思うかで随分と人間の違いが見えてくる。
 さらに、雅人の最後の言葉がいいなと思う。
 「ところで、人もまた人に傷ついてゆくものかもしれない。しかし、人は人に磨かれてもゆくものだ。とも思っている。そんな思いが伝わればいい。そんな句の一つ。」

 大井雅人(おおい・がじん)は、昭和7年(1932)-平成20年(2008)、山梨県韮崎市生まれ。昭和28年頃より「雲母」に投句。昭和30年より飯田龍太に師事。昭和36年「雲母」同人。昭和38年「雲母」編集に参加(平成3年まで)。平成4年「柚」創刊主宰。句集は、『龍岡村』『朱の寺』『消息』『柚子』『大坂上の坂』。