第四夜 富安風生の「木の実」の句

  よろこべばしきりに落つる木の実かな  富安風生

 風生俳句の中で私が一番先に惹かれた作品である。最初、「よろこべば」がどういうことなのか掴めなかったが、一本の老木の下で、子ども達が木の実を拾っている。その楽しそうな姿を眺めていた老木は、「そうかそうか、うれしいのか。そうら、木の実をもっと落としてあげるよ。いっぱい拾うんだよ」と、大きな身体を揺すって、老木は木の実をこぼしているという景である。木にも情がある。何と慈愛にあふれた情景だろう。

 風生は一八八五(明治十八)年に愛知県一宮町に生まれた。京帝大独逸法律科卒業後に逓信省(現在の郵政省)に勤務するが、翌年喀血して療養生活、五年後に逓信省に復職した。
 大正七年に福岡貯金局長として赴任した九州の地で最初の師・吉岡禅寺洞と出会い、俳誌「天の川」の創刊同人となる。その以前から俳句は作っていたが、のめり込んだのは福岡に来てからで、「ホトトギス」の高浜虚子の著書『進むべき俳句の道』を読んで感動したのも、大正八年に、九州巡歴の虚子に初めてお目にかかったのも、この赴任先の福岡であった。
 この時、虚子は四十六歳、風生は三十五歳であった。

 東京に戻った風生は、大正九年に「ホトトギス」へ投句を始め、十一年には東大俳句会を再結成する。「ホトトギス」は第二期黄金時代といわれ、中田みづほ、水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝、山口青邨など、後に俳句界を席巻する若き俳人たちが、ひたすら客観写生の技を磨き、互いに切磋琢磨していた。

 風生は、他の人たちより年齢も上であり、作風も穏やかな方であったので、当時は四Sの後ろに控えているように感じられた。四Sというのは、秋桜子、素十、誓子、青畝の四人のことで、昭和三年、「ホトトギス」の講演会で山口青邨が水原秋桜子と高野素十、山口誓子と阿波野青畝の四人について「東に秋素、西に誓畝の二Sあり」と語ったことで生まれた呼称。近年では「よんエス」と呼称されることが多い。

 昭和三年に、逓信省の大阪貯金局の文芸誌であった「若葉」の編集を東京に移して、風生は主宰者となる。

 昭和七年に上梓した『草の花』の序文で虚子は、俳句界に起こりつつある新興俳句の波と風生俳句について、次のように述べている。
 「即今の俳壇は新奇奇峭の士に富み、新題を探ぐり新境を拓き、俳句の境地を拡張することに是れ力めてをる。其も頗るよい。而も亦た静かに歩を中道にとゞめ、騒がず、誤たず、完成せる芸術品を打成するのに志してゐる人も少くない。是も亦た頗るよい。風生君は正しく後者に属する。」