第二百七十七夜 原 裕の「冬」の句

 原裕は、原石鼎の実子だと思っていた。しかしそうではなかった。俳句には、偶然に惹かれたという。原裕が15歳のとき終戦を迎え、何をすればよいのか解らず、全くの虚脱状態であった。そうしたときに、書店で触れたのが「鹿火屋」だった。ページを繰ると主宰・原石鼎の作品〈春の水岸へ岸へとゆうべかな〉があった。ゆったりとした調べ、ゆったりとした夕の岸に打ち寄せる春の水。
 原裕は、早速に発行所へ手紙を買いて、『石鼎句集』を送ってもらった。
 
 今宵は、原石鼎の死後に養子となった原裕の作品を紹介させていただく。
 
  母一人子一人の冬門の牛 『葦牙』
 
 昭和24年、「鹿火屋」に入会したが、2年後の昭和26年には師の石鼎が亡くなる。その通夜の席上で、原コウ子から養子縁組の話を持ちかけられる。実家では長男であったが、翌26年には原家に入籍した。俳号「裕」となる。
 掲句は、母一人子一人になったばかりである。夫を失くしたばかりの母のコウ子は打ち沈んでいた。養子になったばかりの裕も、母に慣れていなかったのではないだろうか。
 門の側の木に、近所の農夫が牛を繋いでおくことがあった。成りたての母と養子に成りたての子にとって、ゆったりと動く牛は、なにかと二人にとっての気分を紛らわせてくれる縁であったのだろう。
 製作年は、養子になった年であった。

  鳥雲に入るおほかたは常の景 『青垣』

 「鳥雲に入る」は、「鳥帰る」の傍題で、秋に北からやってきた雁や鴨など鳥たちが再び北へ帰ることをいい、雲間に消えて見えなくなるのが「鳥雲に入る」である。
 私も、白鳥が帰る日に出合いたいと、毎年、車で40分ほどの茨城県の菅生沼に出かけるが、「昨日だったよ」とか「もう少し早い時間だよ」と言われたり、一度しかうまく出合ったことがない。だが、去っていく飛翔の姿だけでなく、沼の景色がなんだか常とは異なっていることを感じる。沼は、飛んで来る前の静けさに戻ったのではなく、何かが失われた静けさでもある。
 失恋したときと似ているかもしれない。
 私の師の深見けん二は、「季題を信じて、季題に心を託して俳句は詠むのです」と、いつも仰っている。全てを細かく描写をしなくても、季題の本意として、語られていることが既にあるからであろう。

  螻蛄鳴くや詩は呪術にはじまりし 『正午』
 けらなくや うたはじゅじゅつに はじまりし
 
 ジーッジーッと地中から漏れて聞こえるのは、螻蛄の鳴き声だという。大歳時記や図鑑で螻蛄を見るまでは、3センチほどの、真っ黒い、可愛らしいとはいえない姿であるとは知らなかった。すばしこく、飛んだり、潜ったり、泳いだり、登ったりと様々なことが出来るらしい。
 この作品の「詩(うた)は呪術にはじまりし」は難しい。超自然的な存在即ち神に向かって、はたらきかけるのは呪術即ち詩(うた)であるということだろうか。「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も「アーメン」も同じく、それぞれの神への祈りの言葉である。螻蛄のジジ、ジーッと鳴く声を聞きながら、原裕は感じたのであろう。

 原 裕(はら・ゆたか は、昭和5年(1930)-平成11年(1999)、茨城県出身の俳人。旧姓は堀込昇。原石鼎に師事、石鼎の死後、昭和27年に夫人原コウ子の養子となる。昭和35年、埼玉大学国語国文学卒業。昭和49年8月、鹿火屋創刊六百号記念大会にて原コウ子より「鹿火屋」主宰を継承。昭和54年、俳人協会理事に就任。平成元年、俳人協会常務理事に就任。俳句は、原石鼎の他に、石田波郷、加藤楸邨に私淑。句集は、『葦牙』『青垣』『新治』『出雲』『正午』、春陽堂文庫『原裕』など。