第二百七十八夜 河原枇杷男の「蟲(むし)」の句

 河原枇杷男氏は、永田耕衣に師事していたという。
 私の所属結社は深見けん二主宰の「花鳥来」。高浜虚子の最晩年の愛弟子といわれる俳人であるが、私はホトトギスだけでなく、俳句の広い世界を見せてくれるかのように、「花鳥来」誌に、素晴らしい俳人の作品論を書く機会を与えてくれた。
 阪神大震災で永田耕衣を書いた折には、俳句文学館に通い、20冊の句集を読んだ。仏教や哲学も日本だけではないし、17文字という短さの中で難解であったが、前を向き続けるエネルギーはじつに魅力的だ。
 河原枇杷男は、違った方法論で突き進み、違った魅力を感じさせてくれている。
 
 今宵は、枇杷男俳句に到達できるか・・考えて見たい。

  或る闇は蟲の形をして哭けり 『鳥宙論』
  
 或る闇とは何だろうか。蟲というのは立派な顔をもち、自在に動く前脚がある。「哭く」は「哭す」で、死者を弔うときに大きな声をあげて泣くことである。蟲の形をした闇というと蟲の顔まで想像してしまうので、「哭けり」は、死者たちの声とも思われる。
 私の住む関東平野の夜更け、犬とゆく田舎道は凄まじい蟲の闇がある。死ぬまでの残された時間は短い。あらん限りに生を謳歌しているのか、間もなく訪れる死を悲しんでいるのか、必死である。

 哲学者の梅原猛は、この句を最初に発見してくれた人であるという。
 「蟲の形をして哭く闇は、どのような深い闇であろうか。どうも底知れない闇のような気がする。秋になく蟲のなかに、宇宙の深い深い闇の権化を見たのかもしれない」と書いている。

  まなうらに蝮棲むなり石降るなり 『鳥宙論』

 飯田龍太、大岡信、高柳重信、吉岡実編『現代俳句案内』(立風書房刊)は、42名の作者が、自らの作品の意図、俳句観を書いている。今から35年前の書であるが、作品を繙こうとする際に、このしっかり書かれた俳句観が、とても役立っている。
 この作品は、俳句形式を選ぶことの覚悟とも言えるであろう。常不軽菩薩を例に挙げている。常不軽菩薩は、法華経に出てくる菩薩のことで、人々に法華経の素晴らしさを説いて回ると、その度に石を投げられた。一旦は石の当たらないところまで引き下がるが、何度でも法華経の素晴らしさを説き、後には菩薩になった人である。
 大抵の俳人は、このような覚悟では詠まないかもしれない。
 筆者の私に、一体どれほどの覚悟があって、自分を持ち、一句に仕上げることができるだろうか。

  秋の暮こころ綾取りしてをりぬ 『閻浮提考』

 「こころ綾取りしてをりぬ」は、よくわかる、俳句を詠む過程はこんな風だなあと思う。先ずよく見る、言葉を選ぶ、助詞の使い方をチェックし、リズムを整える。
 心の綾取りは、俳句を詠むときは「心の闇」であろうが、「綾取り」という子どもの遊びのように詠まれると、明るく楽しいことを考えるときも同じ手順を踏んでいることに気づく。

 河原枇杷男(かわはら・びわお)は、昭和5年(1930)、兵庫県宝塚市の生まれ。龍谷大学文学部卒。昭和29年より永田耕衣に師事し「琴座」同人、昭和33年に高柳重信の「俳句評論」創刊に参加。昭和59年「序曲」を創刊・主宰(平成元年まで)。第3回俳句評論賞、第2回鬣TATEGAMI俳句賞、第4回正岡子規国際俳句賞を受賞。また西宮市大谷記念美術館事務局長などを歴任。代表句に〈野菊まで行くに四五人斃れけり〉〈身のなかのまつ暗がりの螢狩り〉〈或る闇は蟲の形をして哭けり〉など。存在論的な深みを持つ幻想的な句風。句集に『烏宙論』『密』『流灌頂』『蝶座』『河原枇杷男句集』などがある。