第二百七十九夜 金子光晴の「花牡丹」の句

 金子光晴との出合いは、およそ50年前になる。出版界を夢見ていた夫は大学卒業後、一度は地元長崎に戻って教員をしていたが、4年後、東京に出た。
 同県人の先輩、朝日新聞社学芸部の浜川博さんは、出版社の路線を決める際に相談にのってくださり、人脈を紹介してくださった。
 昭和48年、出版の街の神保町にあるビルの一室から出発した蝸牛社は、金子光晴、曽宮一念、土岐善麿、高田博厚、サイデンステッカー、松田修、石垣駒子、吉田漱氏という素晴らしい方たちによるエッセイ叢書からスタートした。第1冊目が、金子光晴の『相棒』であった。

 跋で、金子光晴は次のように書いている。
 「この十年来ふかい友誼にあずかっている浜川博さんからの御力添えで、いつもひとりではしんどからう、なにはさて五十年というながい人生をつきあってきたよき相棒の森三千代さんと御いっしょに舞台にあがってもらって、どたまを叩くなり扇の音もたかく、江湖の御機嫌をとりむすんでみては、ということになったが、さて、どういうことになりますやら。」
 跋の最後の方で、妻の森三千代との関係を次のように書いている。
 「男と女なんか、こんなふうに生きても、五十年もながいあいだいっしょに暮らせる、とわかってもらえたらそれでいい。(略)」と。
 久しぶりで『相棒』を、私は、つまみ食いのように読み返してみた。
 
 ご自宅に、夫が何度目かお伺いした折であったと思う。
 タイトルは『相棒』、本のケースと扉には金子光晴の直筆で、ということに決まった。
 その場で「相棒」と認めてくださったと思う。何枚かの色紙が遺されていて、1枚は額装して、今も書斎に飾ってある。
 もう一つ、戴いたのが、俳句の短冊である。この短冊もずっと大切に飾ってある。
 
    若き荒木先生に
  特出しの盛の頃の花牡丹  光晴
  
 夫の荒木が、話してくれた。
 金子光晴の妻の森三千代は長崎出身。金子光晴が収入のないとき、長崎の妻の実家に、妻と子を預けたり、ある時には、子を預けて6年もの間を夫婦でヨーロッパを遍歴したことがあったという。
 掲句は、いつの頃だろうか。長崎で光晴がストリップ劇場に行ったときのことを詠んだ一句だと言って、下さったという。
 大きな扇子か、ストールか、ともかく見事な手さばきで、見えないように踊っていたある瞬間、踊り子の太腿に見たのが、花牡丹の大きな入墨であったという。
 
 いかにも光晴らしい、遊び人らしい一句であるが、特に俳人というわけではなくても、当時の文人など、挨拶に一句詠み、短冊に認めて差し上げることはあったようである。
 そうした短冊は、我が家にいくつかあるが、ずっと飾っておいたのは、絵心もある、味のある、墨書であったからであろう。

 金子光晴(かねこ・みつはる、明治28年(1895)-昭和50年(1975)、愛知県津島市生まれ。日本の詩人。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。暁星中学校卒業。浮世絵師の小林清親に日本画を習った時期もある。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。
 詩集として『落下傘』『こがね蟲』『鮫』『蛾』『IL』『女たちへのエレジー』、『若葉のうた』など。自伝に、『マレー蘭印紀行』『どくろ杯』『ねむれ巴里』など。その他、終戦後の日本と自身の『人間の悲劇』『絶望の精神史』など。