横光利一の俳句に出合ったのは、高浜虚子の句集『五百五十句』の鑑賞を試みていた最中であった。『五百五十句』は、昭和11年から15年の作品が収められており、昭和11年というのは、虚子が「箱根丸」でヨーロッパ旅行をした年である。
箱根丸に、横浜の次の寄港地の神戸から乗船した横光利一は、半年間、東京日日新聞ならびに大阪毎日新聞ヨーロッパ特派員としての渡欧だった。ベルリンオリンピック観戦記と外遊記が目的であった。
行路のマルセーユまでは洋上での生活である。箱根丸の機関長の上ノ畑楠窓は、ホトトギスの同人であることから、虚子に願って俳句会を提案したのであろう。
虚子の『渡仏日記』にはこう書かれている。
「この香港を出帆の日、ホトトギス同人であり今回の箱根丸機関長である上ノ畑楠窓の部屋で、第一回目の洋上句会が開かれた。なにしろフランスまでの片道でも四十日間も同じメンバーで船上にいるのだから。このメンバーには、作家の横光利一もいた。また楠窓は、乗客から初心者も誘い、終には箱根丸のスチュワデスや機関士まで誘って、十五人ほどの句会が始まった。
この洋上句会はスエズまで続いた。」
今宵は、横光利一の俳句を紹介してみよう。
天井に潮ざゐ映る昼寝かな
第1回の作品は〈天井に潮ざゐ映る昼寝かな〉であった。嘱目句である。
船室で昼寝をしていると、窓から「潮騒」が天井に映っているというのだ。「潮騒」とは、潮の満ちてくるときに、波の騒ぎ立つ音の意味である。音が天井に映ることはない。おそらく、波の立ち騒ぐときに生じる太陽光が窓を通して天井に映ったのであろう。虚子選の句である。「潮ざゐ映る」と詠んだのは、音を映像として捉えた新感覚である。
虚子は、フランスに音楽留学している次男の友次郎に会うことも目的の一つで、当時、女学生であった六女の章子(後の上野章子)を同道していた。
洋上句会の記録は、虚子の没後に書かれた上野章子著のエッセイ集『佐介此頃』の「手繰る思い出」の中にあった。
文人俳句は、久保田万太郎や夏目漱石が有名である。横光利一も有名な小説家であり、生涯に400句ほどの俳句を詠んでいる俳人でもある。
代表句と言われている作品を見てみよう。
蟻 薹上に餓ゑて月高し
あり だいじょうにうえて つきたかし
作家の川端康成が絶賛した、句碑になっている作品である。字足らずであるが、句碑では「蟻」で改行されている。この一文字で五文字分の余白は十分考えられる。
句意は次のようであろう。
一匹の蟻がいる。草の茎の上まで登ってきたが、蟻はまだまだ上へ登りたいという思いで、高い月を眺めている。「餓ゑて」は心の飢餓状態のことであろう。横光利一はこれまでに、文体や思考を常に新しいものを願いながら書いてきた。だが、作家は常に貪欲に高みを目指してゆく。こうした思いが、作品となったのであった。
横光利一は、俳句を詠むことは小説の修業であるという。
横光利一(よこみつ・りいち)は、明治31年(1898)-昭和22年(1947)、福島県生まれ。小説家・俳人・評論家。早稲田大学中退。菊池寛を知り、『文芸春秋』創刊に際し同人となり、『日輪』『蝿』を発表。新進作家として知られ、のちに川端康成らと『文芸時代』を創刊。伝統的私小説とプロレタリア文学に対抗し、新しい感覚的表現を主張、“新感覚派”の代表的作家として活躍する。
代表作は、『日輪』『蠅』『頭ならびに腹』『春は馬車に乗って』ほか多数。