五十嵐播水について一番に思い出したことは、虚子の句集「七百五十句」の昭和29年12月19日にある〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句である。
播水夫妻の結婚30年の虚子からの祝句で、明るく目出度い句柄である。季題は、虚子の好きな「冬日」。地球が自転をしながら太陽の周りを「一万余回」、今日の冬日のようににこにこと回っているという。計算してみると、365日×30=10、950日であり、さらに閏年もあるから、まさに「地球一万余回」である。
大正9年、播水が京大三高俳句会で虚子と出会い、昭和34年に虚子が亡くなるまでの凡そ40年、播水はずっと虚子門下であり続け、虚子の説く「平明にして余韻のある句」を目指し、口癖は「吟行は俳句の戦いの場」であった。
今宵は、五十嵐播水の作品を紹介してみよう。
さまざまの山の蛾とまる網戸かな 『秋燕』
「蛾」は、火取虫、火蛾、とも言い、夏の夜など室内の灯に、凄まじい勢いでガラス窓や網戸に飛んで来て、鱗粉がべったり付くことがある。「蛾」も「網戸」も夏の季題だが、ここは「網戸」が主題であろう。蛾も蝶類で、止まるときは翅を拡げたままの形である。太い胴体、鱗粉、大きく翅を拡げた蛾が網戸に貼り付いているのは気味悪いものである。だが網戸が守ってくれている。
家中が昼寝してをり猫までも 『石蕗の花』
開業医である播水が、診察室から休憩時間を母屋で過ごそうと戻ると、畳の上かソファーの上か、妻が横たわり、子が母の側に寝ており、しかも、猫も同じような姿で昼寝をしているではないか。
例えば、令和2年の8月の暑さといったら半端ない熱帯並みの高温である。酷暑である。
無理をせず横になっていたらいいよ、と、医師の播水は思うだろうが、一家の主人が働いているというのに、なんとも天下泰平である。
除夜の鐘闇はむかしにかへりたる 『月魄』
除夜の鐘を聞きにお寺まで出かけたことは、たった1回である。あまりの混雑に閉口した。除夜の鐘を衝く闇は、鐘の音と音の合間にある静けさが闇を真闇にするようである。現代ではほぼ感じたことのない「真闇」に置かれたとき、ふっと、遠い昔の世界へ入りこんだ気持ちになったのだろう。
元日の出帆旗ある異国船 『埠頭』
兵庫県は神戸港があり、異国船の立ち寄る大きな港町である。元日の出帆旗は、おそらく船舶の自国の国旗を掲げると思われる。港に遊びにやって来た親子連れも、恋人同士も、イギリス船だ、スペインの船よ、と異国情緒に華やぐ。
初暦めくれば月日流れ初む 『播水遺句集』
「初暦めくれば」という上句の丁寧な描写から、下句「月日流れ初む」と、暦の365日という月日が、流れ始めている、動き始めているという捉え方、感受する力がすばらしい。
五十嵐播水(いがらし・ばんすい)は、明治32年(1899)-平成12年(2000)、兵庫県姫路市生まれ。大正12年、京都帝国大学(京都大学)医学部を卒業。医師。俳句は、大正9年、大学在学中より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事。昭和7年、「ホトトギス」同人。昭和8年、山口誓子・水原秋桜子・日野草城・鈴鹿野風呂らと共に「京大俳句」創刊に参加。昭和9年、「九年母」を姫路へ移して主宰。永眠101歳。