第二百八十二夜 千原叡子の「雛の客」の句

 千原叡子さんの父・安積素顔さんの作品集『十三代』を読み返していたときであった。
 届いたばかりの所属結社「花鳥来」の句会報に、ホトトギスの同人でもある山田閠子さんの作品に、悼千原叡子様の詞書とともに〈明易や虚子のもとへと一佳人〉の弔句を見た。
 驚いて確認すると、一年半ほど入院され、つい一月前、令和2年7月11日に亡くなられたということであった。90歳であったという。
 
 私は一度だけ、叡子さんにお目にかかったことがある。平成28年の「花鳥来」は、百号記念祝賀会と総会を兼ねていた。何事もひそやかな会であるが、この日は、千原叡子さんを始め、深見けん二主宰のご友人方が御来席くださった。
 虚子の小説「椿子物語」の主人公を前に、どきどきした。本当に、実在した方が主人公であったのだ。〈椿子物語のお方がここに風薫る みほ〉と、一句詠んだ。

 今宵は、千原叡子さんの作品を紹介させていただく。
 
  椿子に会ひたしと言ひ雛の客
  
 俳号を付けたお礼として人形問屋「吉徳」の十代目・山田徳兵衛さんから一体の女人形をもらった虚子は、「椿子」と名づけて側に置いていたが、ある時、若く美しい叡子さんに差し上げた。折から、虚子の俳小屋から赤い椿が満開であった。
 素顔も叡子も、ホトトギスの俳人であり虚子の弟子である。「椿子」は大事にされ、句会名も「椿子の会」として続けていたが、虚子の没後に出来た虚子記念館に収められ、今は誰も「椿子」に会えるようになっている。
 
  ねんねこの中で歌ふを母のみ知る 

 「ねんねこ」で子を育てていたのは、戦前から戦後間もない頃であろう。子を背負った上から羽織るわたいれで冬の季題。おぶったまま、母親は一日中、家事やら畑仕事をしていた。母の背のねんねこの中が、子にとっての遊び場であったのかもしれない。母が歌っていた歌をいつの間にか覚え、口づさむようになった子。母は子の歌う声にやすらぎ、癒やされているように思えてくる。

  小面の秋思のひたと我に向く

 小面は、若い女のシテの付ける面である。演目は、「紅葉狩」とか「井筒」など秋の曲であろう。後段のシテの場面というのは、前段のシテの死後の姿である。恋の恨みつらみを述べる様子が、小面の上下の動きによって伝わってくる。正面席の作者は、ある瞬間、焦点を合わせたように、小面を少し下向きの形で、シテが自分の方に向いたと思った。「曇ル」という表情で、シテの悲しみや苦しみがひたと作者を貫いた。

  我より出し聲聲なさず蛇の前

 筆者の私は若い頃に、坂の多い長崎の町に住んでいたことがある。昼間であったが、坂の上の家に戻るとき、石段の道の途中に丸まっている蛇と出くわした。怖かった。だが帰らねばならない。そおっと、どうぞ蛇がこちらを向いたりしませんようにと心で願い続けた。叫んだりはしなかったが、もし叫ぼうとしても、叡子さんと同じで、自分の口から出した筈の声が「声」になっていなかったかもしれない。
 「聲」と旧字にすることで、常でない声の音が表現できたように思う。

 千原叡子(ちはら・えいこ)は、昭和5年(1930)-令和2年(2020)、兵庫県但馬和田山生まれ。昭和20年より高浜虚子の直接指導を受け、同年ホトトギス初入選。ホトトギス同人。日本伝統俳句協会参与。平成8年関西支部長。句集『』