第二百八十三夜 安積素顔の「掃苔」の句

 安積素顔(あづみ・そがん)は、昨夜の第二百八十二夜の千原叡子さんの父君。昭和16年から俳句を始めていた素顔が、虚子と直接会ったのは、昭和20年である。ホトトギスの西山泊雲の墓参り(昭和19年に亡くなった)と、但馬の和田山の古屋敷香葎へ疎開した長男の年尾一家を訪ねた折で、翌日は安積素顔宅へ一泊した。

 今宵は、安積素顔の作品を句集『十三代』から紹介させていただく。

  掃苔や十三代は盲なる

 虚子が素顔宅に一泊した翌日、表に出て庭や畑や先祖の墓所を案内してくれた。素顔は普通の盲人のように杖をつくことはしなかった。無造作に少女の肩に手を掛けて、それで目の見える人のように歩いた。
 杖となって手を引いたり肩を貸したりしていたのが、当時15歳の長女の、セーラー服を着た叡子さんであった。最初に案内してくれたのが、先祖の墓地であった。板塀が巡らされ、元禄時代からの先祖の墓が並んでいた。
 その日の虚子の句は〈秋晴や或は先祖の墓を撫し〉、素顔の句が掲句であった。
 後に、素顔は叡子に冗談ともなく、「掃苔や」の句を自分の墓碑に遺したいと言ったことがあったという。
 墓碑に遺されているか調べはつかなかったが、叡子さんは、父素顔の記念として句集『十三代』を、父の没後50年目に上梓した。
 
  乾坤に一擲くれし大夕立  昭和21年 巻頭
  
 素顔が俳句を詠み、「ホトトギス」と京極杞陽の「木兎」に投句していた期間は、僅か5年であったという。虚子との出会いがあって、余程嬉しかったのであろう。翌昭和21年の「ホトトギス」10月号では、掲句と〈団扇膝に立てゝ倒してうなづきぬ〉の2句が巻頭作品となった。この作品は、神戸市の虚子記念館の俳碑の一つになった。
 「乾坤一擲」は、運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をすること。 掲句は、天は地に、まさに大勝負の一擲の如く、畑に恵みの大夕立を降らせてくれた、という句意になろうか。

  剪定のはさみの音の暖かき

 目と耳を悪くした素顔だが、〈耳一つ恵み残され冬籠〉とあるように、失ったのは左の聴覚であった。春には、庭の花木を揃えるために枝先を整える剪定鋏の規則的な音を、春だなあ、と心まで暖かくなって聞いている素顔である。

  折からの落花に頬をまかせつゝ

 桜の一番の美しさは、散るときだと思う。目の見えない素顔にとっての「落花」とは、まさに花びらが己の頬に触れることであろう。いつまでも桜の木の思うがままに、花びらを己の頬を打つに任せている。
 素顔は、結婚して叡子が生まれた後、右目が見えなくなった。桜の花の咲いていて落花も始まった頃であった。急に、黒い幕が上から下りてきて、その幕がついと下がってきて忽ち眼を隠してしまった。
 網膜剥離であったと、素顔から聞いていた京極杞陽が、虚子に話したという。

 安積素顔(あづみ・そがん)は、明治34年(1901)-昭和24年(1949)、兵庫県但馬地方の和田山町で素封家の次男として出生。中学4年のとき病気のため左側の視力及び聴力を失う。大正14年、同志社大学卒業。昭和5年、長女(千原叡子)誕生。同年右眼をも失明。長兄死去のため家督を継いで昭和11年故郷の和田山に引き揚げ、以降町政に関わる。昭和16年頃から俳句を始め、西山泊雲(丹波竹田の酒造家)に師事し、昭和18年、「ホトトギス」に初投句。昭和19年、泊雲の死去後は京極杞陽(但馬豊岡藩主の後裔)に師事し「木兎」にも投句。昭和20年、和田山に戦時疎開してきた高濱年尾に接し、旅行中の虚子を自宅に迎える。昭和21年、ホトトギスの初巻頭。