第二百八十四夜 酒井抱一の「花火」の句

 この令和2年の夏は、何かが違っていたが何かであることも忘れていたほどの猛暑であり、しかも長いコロナ禍からも抜け出せていない状況である。
 今年の8月が例年と違っていたのは、そう、花火大会であった。取手、手賀沼、常総市から連日のように聞こえていた揚花火の音が全く聞こえてこないのだ。
 
 本日8月22日は、平成17年に亡くなった筆者の母の命日である。平成11年に東京から茨城県に転居した頃から認知症と診断されていた。今から思うと、父が亡くなり、転居が認知症を加速させていたのだろうが、しゃきっとして厳しかった母が認知症であることは、娘としては納得できなかった。父を追うように、母は、暑い日々の続いた4年後に亡くなった。
 あっけなさの中で、一人っ子の私は、さらに一人ぽっちを感じたが、しなければならないことは多い。私が、涙がぼろぼろ零れて泣くことができたのは2年後の母の三回忌の後の、花火の夜であった。
 〈へなへなと田んぼの空へ遠花火〉〈丹田に大音とどむ花火かな〉と、詠んだ。

 今宵は、酒井抱一の句を紹介してみよう。

  星一つ殘して落(おつ)る花火かな

 講談社の『カラー図説 日本大歳時記』に、酒井抱一の掲句を見つけた。江戸時代の琳派の絵師の酒井抱一が、俳人でもあったことは知らずにいた。
 打上花火が空へ上るときも花火が開くときも、星の存在には気づかないものだが、花火が落ちるときには、煙の空に、置いてきぼりのように星が一つ残されていた。
 ああ、あの日の私の心のようだ、と思った。

  黒樂の茶碗の缺(か)けやいなびかり

 黒楽の茶碗は、普通は、そう簡単には入手できない貴重品である。「缺け」が出来たときには、金継ぎを施すという。割れたり欠けたりした器を漆で接着し、継いだ部分を〈金〉で装飾しながら修復する伝統的な修理法である。
 もしかしたら、稲光がしたとき、茶碗の継いだ部分の〈金〉が闇の中で光ったのではないだろうか。

 酒井 抱一(さかい・ほういつ)は、宝暦11年(1761) – 文政11年(1829年)、江戸時代後期の絵師、俳人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。俳諧もまた彼の生涯を通じて探求された芸術であった。画に於ける光琳のように、抱一は宝井其角(1661-1707)に私淑し、古典の教養に裏付けられた難解な句を多く残したが、晩年には平明な句風に移行。句集は、竹の家主人編『西鶴抱一句集』(文芸之日本社)。