第六夜  夏目漱石の「霧」の句

  霧黄なる市に動くや影法師  夏目漱石 

 明治三十五年九月十九日に子規が亡くなった。英国ロンドンへ留学中の漱石は、虚子からの電報を受け取ったが親友の子規の葬儀に日本へ戻ることも叶わないので、「倫敦にて子規の訃を聞きて」と前書きした五句の追悼句を贈っていた。その中の一句である。
 ロンドンの濃霧はことに有名である。この頃は石炭を燃やして火力発電を得ていたから、工場からも家々からも石炭の煙で街の空気は汚れていたと思われる。「霧黄なる市」とはそうした澱んだ霧の街であろう。子規の訃報を聞いた漱石は、悲しみの中を当てもなくロンドンの街を歩いた。行き交う人の顔は、深い霧と溢れる涙で朦朧としていたのかもしれないが、漱石には、影法師のように見えた。うごめく影法師の中に子規の顔がふっと浮かんだように、重なって見えたのではないだろうか。
 
 夏目漱石は、一八六七(慶応三)年東京に生まれる。同い年の正岡子規とは明治二二年現在の東大で出会い、その頃から俳句を始めた。子規は、意匠の斬新さと滑稽思想が漱石の特色であると絶賛した。ロンドン留学から帰国後に書いた写生文「吾輩は猫である」が、子規没後の虚子の「ホトトギス」にで絶賛され、小説家の道を歩む。
 
 利根川沿いの街に住むようになって、随分と霧と親しくなったような気がしている。霧が立ち込めると、犬を連れて飛び出して見に行く。ある時は、利根川に霧が厚い雲のように覆いかぶさって、川は霧の流れになっていた。ある時は、森林の中をゆくと霧が小さな塊となって跳ねるように木々の間を転がるように通り抜けていた。二ヶ月の入院をした時は、霧のお城に閉じ込められてしまったような夜明けがあった。

  白樺を幽かに霧のゆく音か  水原秋桜子
  霧月夜美しくして一夜ぎり  橋本多佳子
  屋根屋根の霧教会の塔へゆく  池内友次郎
 
 だが、一句目の秋桜子の作品の「霧のゆく音」にはまだ出合ったことはない。