私は、晩秋に生まれているので、春よりも夏よりも、だんだん寒くなる頃の冬日が好きである。ブログ「千夜千句」の第二百八十一夜の五十嵐播水の項では、播水夫妻の結婚30年のお祝いに虚子は、〈地球一万余回転冬日にこにこ〉の句を贈っている。
今宵は、昭和27年の冬日の句を紹介してみよう。
暖き冬日あり甘き空気あり
一月三十日 偶成。
「玉藻」連載の虚子の「俳諧日記」には、1月19日に興味深い手紙が紹介されていた。
石昌子さんからかういふ手紙が来た。
「この廿一日は母(杉田久女)の七年の忌日でございます。丁度戦争直後の事ですべての不自由な時に亡くなり、苦しい時にも水一杯自分の手でやることも出来ず別れましたので忌日には当地の風習に慣つて法要をいたしたいと存じて居ります。先生の御厚志に依りまして今年句集を手向けることの出来ますことは何よりの供養で勿体なく思ひます。忌日には近所の人々五十人ばかりをよび、念仏でも称へて貰ひたいと思ひます。山深い土地のことゝて精進料理をいたしますのにも蔵から膳部や茶碗等を取り出し、お豆腐や油揚類までうちで作ります。茶めしを一度に一斗用意し、念仏のあとの甘酒も一斗近く作つておかねばなりません。田舎の旧態依然たる風習をうとむといふやふな気持も起らず、たゞ供養したいといふ心もちで一杯でございます。」
杉田久女は、長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。昭和7年には、〈風に落つ楊貴妃桜房のまま〉の5句が「ホトトギス」の巻頭を飾り、俳誌「花衣」を創刊主宰になるが、師の虚子との確執により、昭和11年には「ホトトギス」の同人を除名される。その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。
こうしたことが背景となって掲句は生まれたのであろう。
関東地方の太平洋岸では冬晴が多いので、太陽は思わぬ強い光線を感じることがあるが、それも真昼の僅かな時間である。
「冬日」は夏の太陽のように挑戦的な光線の強さもなく、弱々しい光線で白っぽく感じられる太陽の丸さを直視することもできる。淡々と遠くにあるのだけれど、ふと掌に乗せてみたいようなどこかやさしい懐かしさがあるのが「冬日」である。
1月末の「冬日」は、暖かさの中に春を予感させるものを孕んでいた。虚子はすかさず「甘き空気あり」と詠んだのだ。「甘き空気」とは春がやってくるわくわくする心持ちと、自然に佇めば自ずから感じることの出来る、木々の芽吹や草萌のほのかな生の息吹の中に感じるものである。そのような様々な気持を含んだ虚子を取り巻く匂いが「甘き空気」である。
掲句の前書には偶成とあり、虚子は、年末から冬日のスポットライトのような日射しを受けた冬枯の庭「壺中の天地」を見つづけ、『句日記』にもあるように新年になっても「冬日」を見つづけ感じつづけていたとも言える。
また、「俳諧日記」に全文を掲載したことからも、虚子が、杉田久女の長女である石昌子からの手紙に安堵感を覚えたことが読みとれる。虚子の、久女に対する気がかりが一つ消えたことも「甘き空気あり」と言える心持ちの一つとなったと考えられる。
「偶成」というのは、出来事の重なり、気持の重なりがあって、授かるようにして生まれた句なのである。