第二百八十七夜 山口青邨の「蟋蟀」の句

 蟋蟀(こおろぎ)の句と言えば、だれもが一番に思うのが青邨の蟋蟀であろうか。
 昭和6年、青邨が39歳の時に東京都杉並区和田本町のこの家に移り住み、生涯をここで過ごした。書斎兼自宅を「三艸書屋(さんそうしょおく)」と呼び、庭を「雑草園」と呼んだ。雑草園は、青邨が「私の只一つの贅沢」と語った庭である。
 この雑草園が、青邨の没後、奥様も亡くなられた後の平成5年、青邨の生まれた盛岡市にある現代詩歌文学館に隣接する詩歌の森公園内に、自宅の三艸書屋とともにそのままの姿で移築された。

 深見けん二主宰の「花鳥来」の門下の私たちは、みな青邨の孫弟子である。平成10年の初夏、私たちは、同じ青邨門下の斎藤夏風主宰の「屋根」門下の方々とともに、移築された雑草園に行った。書斎のある「三艸書屋」では、青邨の座っていた籐椅子に皆、こぞって座った。
 毎夜遅くまで調べ物をし、原稿を書き、俳句を詠んでいた青邨は、学術書や大歳時記などの参考書を、机の上や、畳のそちこちの手を伸ばせば届くところに、本を積み上げていたという。
 
 今宵は、青邨の「三艸書屋」での作品を見ることにしよう。

  こほろぎのこの一徹の顔を見よ 『庭にて』

 「三艸書屋」の「三艸」はどういう意味なのか、以前も、青邨著『三艸書屋随筆』で見つけて書き留めたことがあるが、難しくて直に忘れる。だが、何度でも書いておこう。
 明治25年生まれの、鉱山学者ならではの「三艸書屋」の命名である。
 
 「専門のことで恐縮だが、泡を使っていろいろの鉱物の粒を選別する方法がある。水の中だがシャボン玉が鉱物の粒をぶら下げて浮き上がるのだと思えばいい。泡は空気と水、それに鉱物、つまり気体、溶体、固体の三つの相(Phase)の間の界面張力による現象、その研究者の書斎、三相書屋、すこし硬いので三艸書屋とした。陶淵明が五本の柳を植えて五柳先生と自ら称したということなども頭にあった。」とある。
  
 この三艸書屋に積み上げた本の間から間を、蟋蟀が出没するのだ。〈こほろぎの本のかげより同じ顔〉の句もあるが、姿形はよく似ているが、昨日と同じ蟋蟀か否かはわからない。
 掲句の眼目は「一徹の顔」であろう。全身が黒く、よく見れば黒い鉄兜のような顔の蟋蟀は、歌舞伎役者の見得を切ったような、それこそ一徹の表情をしている。青邨は、蟋蟀を間近にして、つくづくそう思ったに違いない。
 「この一徹の顔を見よ」と、人に推奨したいほどの惚れ惚れする顔だと言うのだ。
 そして青邨も、かなりの一徹さを持ち、ホトトギスの中で、時には頑として自説を曲げないことから「青邨の鶏冠(とさか)」と言われることがあったという。
 
 盛岡の現代詩歌文学館の一室で行われた句会に、私はこの日の吟行句、〈青邨も又三郎も青あらし〉を投句した。