第二百八十九夜 鈴鹿野風呂の「嵯峨の虫」の句

 鈴鹿野風呂の名を知ったのは、ホトトギスの日野草城を調べている時であった。朝鮮の京城で過ごしていた草城は、大正7年に京大三高入学を機に京都住まいとなり「神陵俳句会」を結成し、大正9年に鈴鹿野風呂、五十嵐播水と出会った。やがて「京大三高俳句会」へと発展し、山口誓子は一年後輩として参加。さらに、野風呂、播水らと俳誌「京鹿子」を創刊。同誌はのちに野風呂が主宰となり、関西におけるホトトギス派の中軸となった。
 この京都時代に、日野草城は俳句の先輩としてまた同志として野風呂とはよく一緒に句を作った。
 日野草城の第1句集『花氷』は、2千句余りの三分の一は野風呂宅での作であったという。幼少期えお朝鮮で過ごし、京都では下宿生活の草城は、日本家庭の風習や食物に疎かった。野風呂夫人は、草城のために白玉、冷奴、心太、冷奴、白酒などを作ってみせたという。草城の代表作〈ところてん煙の如く沈み居り〉は、こうして生まれた。
 『花氷』の序で野風呂はこのエピソードに触れて、「君の最も油の乗つて居たのは三高卒業前後で、力強い火の出るやうな生命がひそんでゐた」と、述べている。
 
  嵯峨の虫いにしへ人になりて聞く 『嵯峨野集』
 
 野風呂は、嵯峨野探勝1500回をして『嵯峨野集』3巻に纏めている。博識で多作で、句集にも『俳諧大矢数』があるほどで、現代の井原西鶴とも言われたという。
 坂東玉三郎の踊りに惹かれて、大阪公演に駆けつけた翌日、嵯峨野を歩いたことがあった。私でさえ、竹林を歩いていると古人(いにしえびと)になったような錯覚をする。松虫であろうか、平安の貴族は鈴虫と松虫を入れ替えて呼んでいたというから、この「嵯峨の虫」は、チンチロリンと美しく鳴く松虫であったかもしれない。
 野風呂が聞いたのは、1200年の歴史のある旧嵯峨御所、大覚寺であった。

  雲を吐く三十六峯夕立晴 『野風呂句集』

 「三十六峰」は、京都の東山三十六峰のことで、京都盆地の東部を区切る南北12キロにおよぶ36の山々の総称である。おだやかな形状を、芭蕉の高弟の服部嵐雪が〈布団着て寝たる姿や東山〉(『枕屏風』)と詠んでいる。
 京都の夏が暑いのは、山々に囲まれていることもあるかもしれないが、時雨が降り、夕立が降ったりと、短い雨が降るということは、雲が湧きやすいということでもあろう。

  さにづらふ紅葉の雨の詩仙堂 『野風呂句集』

 「丹につらう」は「さにづらう」ともいい、赤く照り輝いて美しいの意。「色」「君」「我が大君」「妹」「紐」「紅葉(もみじ)」を形容する言葉であり、詩仙堂は、まさに紅葉のひときわ赤くうつくしいので有名なお寺なのである。
 この句がいいなあと思うのは、上五に、現代では使うことのない床しい言葉を置いたことで、読者である私たちが十七文字の世界の中で紅葉の雨の詩仙堂を歩いている気持ちにさせてくれたことであり、さらに、「紅葉の」「雨の」と畳み込むように赤さが深くなっていったことであろうか。
 
 鈴鹿野風呂(すずか・のぶろ)は、明治20年(1887)-昭和46年(1971)、京都生れ。生家は吉田神社の神官。京都帝国大学卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。大正9年、「京大三高俳句会」を母体として日野草城らとともに「京鹿子」創刊。俳諧活動の傍ら学校でも教鞭をとり、戦後の一時期には旧制京都文科専門学校の最後の校長を務めている。昭和43年京都市文化功労者。句集に『野風呂句集』『浜木綿』 『俳諧大矢数』ほか多数。昭和46年に83歳で死去。「京鹿子」発行所でもあった生家は現在は京鹿子社により野風呂記念館として運用されている。