第二百九十夜 高浜虚子の「金亀子(こがねむし)」の句

 昭和20年代、私が小学生だった頃には、どこの家にも網戸があったわけではなかった。夏の夜の電灯が煌々とし始めると、林や野原から虫たちが飛んできた。
 大分県から東京に来て杉並区に建てた我が家はささやかであったが、左隣には、当時農林大臣の松村謙三氏の屋敷で、広々とした雑木林があり、互いの犬は垣根の間を行き来していた。南側は、畑地が野原になっていたから日光は存分に注がれた。道を挟んだ右隣は、井草教会とひこばえ幼稚園である。ここの広い庭には、銀杏、辛夷、栗の木、草花がたくさん植えられていた。
 こうした環境の中で、虫たちは元気に動き回っていた。
 こがね虫は「かなぶん」と呼んでいたが、電球に体当たりする音の勢いを今でも思い出す。かなぶんは、緑色、金色、黒色だったりするがどれも黄金の輝きがあり、たとえば、蛾のように鱗粉を撒き散らすこともなかった。手で掴んで窓の外に放したこともあった。
 飛んできて、ひっくり返っている姿を見たことがある。丸っこい身体では起き上がれないようで、バタバタとした姿は可笑しかった。

 今宵は、虚子の「金亀子(こがねむし)」の句を考えてみよう。

  金亀子擲つ闇の深さかな 『五百句』
 (こがねむし なげうつやみの ふかさかな)
 
 明治41年、虚子34歳の作。『五百句』の詞書には「明治四十一年八月十一日 日盛会、第十一回」と書かれている。日盛会というのは、この年の8月に虚子を中心とした俳句修業の会で、ほぼ毎日行われた。
 明治39年から行われた虚子を中心に行われた「ホトトギス」派の「俳諧散心」のメンバーに加えて、「日盛会」では内藤鳴雪、渡辺水巴、そして、まだ早稲田の学生だった飯田蛇笏が夏の帰省もせずに随時参加していたという。
 
 この作品は、私が、虚子の中でもずっと気になっていた好きな句である。直球のように心に響くのだが、小さい頃から夏には目にしていた景でもあるからか、鑑賞しようとすると上手く書けなかった。
 再び、三度目の挑戦である。
 
 句意は、夜の灯に突進してくる金亀子を、掴んでは窓の外の闇に放り出している景だ。だが、こちらが手を放すやふわっと飛んで行ってしまい、もう立ち去ったかと思うや、再び勢いよく灯に突進してくる。「擲つ」という言葉は「放る」や「投げる」よりも強さがあるように思う。だが、どこか愛らしさのある金亀子を、虚子は、外の闇に擲ってしまったのだ。
 
 虚子の自句自解がある。
 「金亀子が夏灯を取りに来てぶんぶんと燈火をうなつて飛んでゐるのはよく見る処である。其金亀子をつかまへて窓外の闇にはふる。其闇は深く深く際限もなく続いてをる闇である、といふのである。窓の外には一点の灯もともつてゐない、其庭の闇の深さを描いた句である。」と。
 
 さて、私を含めて現代人は「真闇」を知っているだろうか。20年ほど前に、中尊寺の薪能を見た後、中尊寺の桜坊に泊まったことがあった。多くの観客は、能楽堂から街路灯のある道を帰ってゆくが、脇道に入ると、街路灯はおろか住宅もない一本道。これまで体験したことのない暗闇は恐ろしかった。桜坊に着いてほっとした。この日は曇天だったのか、星も月もなかったことを覚えている。
 「闇の深さ」は、光のない状態である。
 掲句から、光を求めて飛んできた金亀子を、再び光のない庭の闇へ擲ってしまったという虚子の、一瞬の虫への情を感じた。