第二百九十一夜 高浜虚子の「山国の蝶」の句

 昭和19年には、戦局が刻々と厳しさを増してきていた。空襲の危機のある鎌倉では足の不自由ないと夫人が心配なこともあるので、虚子は昭和19年9月4日に鎌倉の住居をあとにして、五女の高木晴子一家のご縁で長野県北佐久郡小諸町野岸へ疎開した。
 虚子といと夫人、女中2人の一家は、小山栄一氏の持家(八畳と六畳と台所の家)を借りて、この小諸に昭和22年10月26日まで足かけ4年を過ごすことになった。

 この時期の『虚子消息』を見ると、紙不足による頁数の減少、年尾の「俳諧」と立子の「玉藻」との併合、更に俳誌が出せない場合を想像した江戸時代の俳句界のことが書かれていたりしていたが、ホトトギスの刊行は頑張り続け、休刊は昭和20年の6月号から9月号の4巻のみであることも分かった。
また、虚子は次のように書いて会員を励ました。

 「ホトトギスは健在であります。」(昭和十九年七月号)
 「頁数は例の如く貧弱でありますが表紙画は新たに加藤栄三画伯に依頼しました。痩せ衰へても尚ほ出来る限りは体面を保ちたいものと思ひます。これがホトトギスとしての身躾みの一つであります。」(昭和十九年九月号)

 疎開した信州小諸町は、雪深い地ではなかったが、寒風吹きすさぶという長い冬の日々を越してようやく春が来た。一冬を過ごし、春になっても暖かい日々が漸く訪れたと思うと、すぐに寒さがぶり返してしまう小諸の地である。
 虚子が小諸で詠んだ最初の蝶は、昭和20年5月14日、当時芦屋に住んでいた息子の年尾が京都の田畑比古を誘ってやって来るというので、見せようと待っていた作品だという。虚子がいつもゆく林檎園の畑の道していたとき出来た句であった。
 
 今宵は、小諸の蝶の句を紹介してみよう。
 
  山国の蝶を荒らしと思はずや 『六百句』
  
 この句は、次のように2回推敲をして、掲句の「蝶を」に決まった。
  ① 山国の蝶は荒らしと思はずや 「蝶は」  
  ② 山国の蝶の荒らしと思はずや 「蝶の」
 
 最初は①であった。虚子は、小諸の自然を「荒らし」と感じていた。散歩中に見る葉の戦ぎ、光と影の強い陰影、その中に飛んでいる蝶も、きっぱりした自然の光と影の中で、都会で見ていた蝶よりも強さを感じたのではないだろうか。虚子にとって、「山国の蝶」は新鮮な発見だったのだ。
 「どうだい、山国の蝶は荒々しいではないか、そうは思わないか」と、そうした気持ちを込めて詠み、年尾や比古に作品を見せた。
 「は」の助詞では強いと感じて、「の」にし、最終的に「を」となった。「を」としたことで軽い間ができ、下五の「「思はずや」の詠嘆へと繋がった。
 
 虚子は、推敲を繰り返した。その痕跡は、毎日の「句日記」、発表する「ホトトギス」、『虚子五句集』と、納得のゆくまで推敲したという。
 
  初蝶来何色と問ふ黃と答ふ 『六百五十来』
 
 『小諸雑記』に、初蝶が初めて登場した。この句が詠まれたのは昭和21年3月29日、小諸に住んで一年半後の作品である。
 
 ① 初蝶来何色と問はれ黃と答ふ
 
 『小諸百句』では「何色と問はれ」であったが、玉藻に掲載したときは「問ふ」であった。いと夫人との会話から出来た作品と言われるが、「問ふ」「答ふ」から初蝶との問答のようにも感じられる。
 『小諸雑記』には、②の形であった。当日の「句日記」にもこの形であった。
 掲句は、「初蝶がやってきたね」、「何色?」、「黄色だよ」という問答が五七五の調べとなった作品である。この頃のいと夫人は、足が不自由であったので炬燵にいて、虚子が縁側から初蝶を見ていたのではないだろうか。