第二百九十七夜 山口青邨の「みちのくの鮭」の句

 井上まことさんの著書『季語になった魚たち』をもう少し見ていこう。お惣菜として食べている魚であるが、漁師たちが釣り上げた後の、魚の美味しさを逃さない工夫の行程など、私が知らずにいたことがたくさんある。
 年末のお歳暮用品として人気があり、お正月の便利な一品となるのが「鮭」であろうか。
 全国どこでも鮭が一番の人気かというと、そうでもないらしい。
 夫の実家の長崎で正月を過ごしたときのことだ。五島で捕れた寒鰤(かんぶり)が、台所にぶら下げてある。母が上手に捌いてお造りにすると、メインディッシュの刺身の大皿ができる。兄弟姉妹と孫たちの20人ものテーブルには、どれも手作り料理の小皿が並ぶ。夫たちは座ってお酒を酌み交わし、嫁たちは準備の大変だったことを覚えている。
 その後、夫の友人の家に新年の挨拶にゆくと、どこの家の大皿も鰤の刺身であった。
 鮭も鰤の正月には欠かせない。
 
 今宵は、鮭の俳句を見てみよう。
 
  みちのくの鮭は醜し吾(あ)もみちのく 『雪国』
  
 今回、井上まことさんの著書を読むまでは、魚の顔のことであるから、特に「醜し」を深くは考えていなかったように思う。
 青邨の自註には、「つくづくその顔を見ると、歯をむき出し鼻がひん曲がり、眼がくぼみ凄じく気味が悪い、魚でなく獣だ」とあり、さらに、〈みちのくの乾鮭獣のごとく吊り〉の句を詠んでいる。
 
 一方、井上まことさんは、次のように解釈している。
 作者が「みちのくの鮭は醜し」といったのは、産卵期になると、その鼻――いや、魚には鈎鼻どころか鼻孔しかないから、その上顎――が鈎のように曲がって、恐ろしい形相になるからである。これを東北では「南部の鼻曲りサケ」と呼ぶ。ただ、恐ろしい顔になるのはオスの方で、メスは変わらない。
 
 鮭の産卵の様子はテレビのドキュメントで観ることがある。そう言えば、メスに近づくオスの顔には異様な迫力があった。北海道を旅行した折に、川原に打ち上げられた無残な鮭を見たが、繁殖と産卵の大仕事を終えた鮭は力尽きてほとんど死滅するという。
 
 「吾もみちのく」は、青邨自身のことであろう。青邨の故郷「みちのく」への思いは強く、無骨なほど何事にも一心不乱な行き方を感じさせる。「みちのく」は「陸奥」のことで、現在の東北地方である。 
 もう一句、見てみよう。
 
  風花の母なる川を鮭のぼる  井上まこと

 鮭の作品で、「風花」という季題で詠んだことに先ず、魚の行動の研究者・井上まことならではの抒情を感じた。この作品を詠んだのは、嗅覚回帰説がほぼ定着した頃であるという。理論が一つずつ積み上げられたとき、学者というのはきっと凄く嬉しいことなのだろう。「風花」という季題の美しい雪の降り方から思った。