虚子『五百句』輪講の、「野分」の作品鑑賞は、私あらきみほが担当した。
ここ数日、これまでにない大型の台風10号が奄美諸島、沖縄近くにきて、これから九州の西側を縦断して朝鮮半島に向かうという。ニュースでは、台風の大きさは、昭和の三大台風と呼ばれる、昭和9年の高知県の室戸台風、昭和20年の鹿児島県の枕崎台風、昭和34年の愛知県・三重県の伊勢湾台風よりも更に型台風であるという。
虚子の「野分」を、もう一度読み直してみた。詞書には、「昭和9年9月21日 家庭俳句会 鎌倉、鶴岡八幡楼門。野分吹く。号外に台風京阪地方を襲ひ大阪天王寺の塔倒ると。」とある。
驚いた。高知県に上陸して甚大な被害をもたらした室戸台風が進んで、この日、大阪を直撃した当日であったのだ。
偶然の一致のように驚いたのは、稀なほどの大型台風であることと、虚子の「野分」の句が詠まれた日付が、本日であったからである。
今宵は、令和2年9月6日の台風情報に耳を傾け、今から61年前の作品を見てみようと思う。
大いなるものが過ぎゆく野分かな 『五百句』
「野分」は、風台風、台風の余波をいう場合が多いが、俳句では「台風」と同じように用いる。源氏物語の巻名にもなっていることもあって、ゆかしさもある。
この日は、「家庭俳句会」が鎌倉の鶴岡八幡宮で昼と夜の月見の2回の句会が行われることになっていた。午前中は雨風が強かったが、午後には雨は止み、風がひゅうひゅう吹いていた。ラジオの時代で、誰もが天気予報を聞いて駆けつけた。だが、風の強い中を女性も含めた一団が三々五々階段をゆく姿を見かけた人は、勇敢な一団と思われたであろう、と、星野立子の「玉藻」や、「ホトトギス」で記事担当の本田あふひは書いている。
吟行句会や句会は、余程の天候であっても駆けつける。
どんな天候でも、出合った「その時」を、誰もが俳句に詠みたいのだ。
当日の、虚子の「句日記」には8句。『五百句』に収めたのは、次の2句であった。
① 大いなるもの北に行く野分かな
② 古の月あり舞の静なし
(いにしえのつきあり まいのしずかなし)
①は、当日の句会でも、一年後にホトトギスに掲載する「句日記」でも、この形であった。句集『五百句』に入れる際の推敲で初めて「大いなるものが過ぎゆく」の形となった。
虚子の凄いところは、先ず句会で投句する。家に戻って「句日記」に書き留める。一年後に「ホトトギス」に「句日記」を載せる際に推敲することもある。句集の際に、また推敲する。
その推敲した跡が一々きちんと残されているところが、虚子の凄さである。どれほど後の俳人たちが作品に納得し、推敲の大切さを教えられたことか。
「北に行く」という事実が、「過ぎゆく」と推敲されて、抽象化され単純化されたことによって、「風」という目には見えない「大いなるもの」が、人間と関わりを持ちながら通り過ぎて行ったことを実感した作品になった。それが、「風台風」である「野分」の本質のような気がする。