第三百夜 百万本清の「秋暑し」の句

 百万本と石寒太さんとの出会いは、石寒太主宰の結社「炎環」が生まれる前からの、思い出してみれば、出版の仕事を通じて知り合った長い付き合いである。
 当時は、会えば酒席となり、話は延々と弾み、出版の企画が生まれ、俳句の企画が生まれた。加藤楸邨の弟子の石寒太さんは、後に「俳句あるふぁα」を立ち上げて編集長になるが、その頃は毎日新聞社文芸部の記者、百万本は、小さな出版社蝸牛社を立ち上げたばかりであった。
 会えば俳句の話となった。あるときは、メニューを見ながら次々と十七文字にしてしまう百万本は、寒太さんからおしぼりを投げつけられたという。俳句の新企画を考えていた百万本ではあるが、まだ自ら俳句を詠む気持ちになっていなかった。
 だが寒太さんは、俳句をそんなに軽く考えられたら困ると思ったのだろう。
 「〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉の句、どうですか?」と、久保田万太郎の句を示した。
 しばらく考えた百万本は、「まいりました!」と、頭を下げたという。

 平成元年、石寒太の俳誌「炎環」が創刊されると、小句会「石神井句会」が生まれ、石神井公園に住む百万本は事務局を務めた。「百万本」の俳号は、当時、酔えば必ず加藤登紀子の「百万本の薔薇」を歌っていたことから、石寒太さんが命名したもの。 俳号は正しくは「百万本清」、本名は荒木清。

 結社に所属していたことも、俳人に師事したこともないが、仕事では、俳句シリーズを3本立ち上げた。テーマ別の『秀句三五〇選』、古典から現代までの代表俳人の『蝸牛俳句文庫』、俳句とエッセイをまとめた『俳句・背景』である。
 その都度、作者や編著者の俳人の方々と必ずお会いしていた。素晴らしいお話をお聞きできたようである。

 句会の参加は、東京で「石神井句会」を8年、移転した茨城県守谷市で「円穹俳句会」の代表を8年、その後は「楽土句会」を始めている。

 守谷市に住んで、百万本が夢中になったことが「農耕一心」であった。この畑作も俳句と同じで、基礎からじっくりというわけではない。隣近所の畑の人が見かねて教えてくださり、失敗の方が多かったが、徐々に年間を通して、お野菜は買わずに済むようになった。
 俳句の種は、日々畑へゆき自然に触れること、吟行には運転手役も兼ねて私も一緒に出かけることである。

 今宵は、百万本が守谷「円穹句会」で詠んだ句を紹介してみよう。

  1・秋暑しダリの時計の刻流れ 合同句集『円穹』

 抽象画家のサルバドール・ダリに、金属製の筈の時計がだらーんと垂れ下がっている作品がある。さて、どう捉えるか。
 令和2年の立秋は8月7日であった。「新涼」と言いたいけれど、この日を境にますます「秋暑し」の様相である。だが、暑さの中のふにゃっと垂れたダリの時計はカチカチと秒針を刻んでいる。
 百万本は、真夏でも秋暑しの中でも、毎朝毎朝、犬を連れて畑に水を撒きにゆく。

  2・耕終へて色なき風と暮れにけり 合同句集『円穹』

 集中の一刻の後の開放感。雑念は少し消えている。これほど土を耕すことが好きになるとは思わなかった、われもまた農耕民族なのだ、と確信する暮れの一刻でもある。

  3・鰯雲だんだんだんと息を吐き 合同句集『円穹』

 どうしても一人旅に出たくなることがある。能登、高野山、嵯峨野、秩父、五島、伊那など。掲句は能登の旅。このとき、鰯雲に能登海岸で出合った。大きな鰯雲を見ながら、百万本は、鰯雲の動くリズムとなって大きく大きく息を吐いた。
 60歳を過ぎて、足りないことに気づいたという。それは独りになること、「孤独が足りない」は、20歳のころの口癖であった。

 早朝の畑仕事も、独りになりに行っているように思う。〈蟷螂は跳ぶのが下手で怒りん坊〉と詠んだ句もあるが、家族から見れば百万本の自画像のようである。もてあまし気味の自分の心を独りになることで収めてくるのであろう。