第十夜 辻桃子の「露」の俳句

  芋の露ころげるときを待ちてをり  辻 桃子
 
 ある年の辻桃子主宰の「童子」の祝賀会で皆が戴いた扇子には掲句が書かれていた。大ぶりの扇はよい風がくる。この扇で夏を過ごしているからでもあるが、大好きな句の一つである。里芋の大きな葉であろう。小さな露が集まって大きな露の玉が出来ている。今、まさに、転げ落ちんとして、まんまるく膨らみきっている。
 句意は次のようであろうか。
「大きな露の玉は、風が吹いても、何かが触れても、葉が揺れても、すぐにも転げ出しそうである。この露の玉は、違う世界を覗いてみたいのかもしれない。わくわくして転がってゆくチャンスを待っているのだ。」

 一冊の句集を読むとき、私は次の3つことをしている。
 1、共感できる句に丸印をつける。
 2、自分にはない発想、表現の句に丸印をつける。
 3、どこか肌合いが違うと反撥を感じながら読んでいく場合でも、上手いなと思った句に丸印をつける。
 
 例えば1、2は俳句の「技」とか「深さ」であろうが、この3を纏めて書き出してゆくと、作者の「個性」が見えてくるのではないかと思う。書評を書こうとするとき、自分好みの句ばかりを選んでしまうと、果たして作者の「個性」を掴むことができたであろうかと畏れることがある。
 
 辻桃子の俳句は有季・定型・旧仮名遣いではあるが、独特の視点と言葉遣いの作品である。桃子は画家の父をもち、小さい頃から一緒に絵を描きに行っていたという。そして、いつも父から叱られていたという。「もっとよく見て、もっともっと見て、ちっとも写生していない。それは、おまえの頭の中にあるものの形じゃないか」と。
 
 桃子俳句を見てみよう。
 
  虚子の忌の大浴場に泳ぐなり
  右ブーツ左ブーツにもたれをり
  吊されて外套の腕垂るるなり
 
 一句目、たくさん人が虚子忌を詠んでいるがその中で、この作品は虚子恋いの句とならずに、しかも、虚子の大きさを感じさせる魅力がある。俳句の掌(てのひら)の上で、桃子は伸び伸びとマイウェイといった風に抜手をきって泳いでいる。
 桃子は俳句を始めて十七年目、めざしていた現代俳句らしきものに「俳句って何だろう?」と疑問がいっぱいになっていた頃、虚子の句に出会って、虚子の句の簡単さ、ばかばかしさ、ヌーとしてボーっとしたさりげなさに目がさめるようだった、と言っている。(『俳句・俳景 桃童子』蝸牛社刊より)
 二句目、ブーツが玄関で脱がれて置かれてある。柔らかい皮のロングブーツは上の方がくたっと崩れてどちらかにもたれている。そう言えば確かにそうだ、じつに的確な客観描写である。
 三句目、吊されている外套、この句も着ていない脱がれた状態を詠んでいる。脱がれたブーツも吊された外套も、そこから人間が抜け落ちている。桃子は形骸化された物にすぎないものへ、鋭く淋しく目を向けている。
 
 辻桃子は写生派である。他の写生派の俳句とは随分と異なっているが、写生派である。