第十一夜 染谷まやの「青りんご」の句

 
  青りんご大人になるにはおこらなきゃ  小6 染谷まや

 小学生の子ども俳句の中で、まやさんの句にはびっくりした。「大人になるにはおこらなきゃ」に驚いたのである。理屈で考えると、「青りんご」が子どもで、「紅く熟れたりんご」が大人ということであろうが、それにしても、「怒っている」のが大人で、もしかしたら「怒る資格があるのが大人」であると、まやさんは思っているのかな。怒られるのはいやだけど、やはり怒っている大人はえらいのかなと、自分も大人になって怒れるようになりたいと、思っているのかな。
 この俳句はとても可愛らしい。「青りんご」が怒っているうちに、おいしそうな「真っ赤な林檎」になってくるのが見えてくる。子ども俳句が大人の私たちの心を揺さぶるのは、大人になって固定化されてきた思いや感覚を揺さぶり、根元的な思いへ戻っていけるからだと改めて感じた。

 子どもの作った「子ども俳句」と、大人の作った「子どもの感性のある俳句」と、大人の作った「片言的俳句」と、どこが違うのだろうか。
 坪内稔典は「片言(かたこと)的」を「俳句という表現は片言的である。その片言的な表現は、ときに深淵に、また神秘に見えたりするが、しかし、俳句はどこまでも、片言としての活力をもつにすぎない。片言的であることが、なによりもこの文芸の特質だと考えられる。」と説明している。
 
 私の娘が一歳半のとき海を初めて見た。夫の故郷の長崎の海へ連れて行ったときであった。よちよち歩きの娘は小さな全身で立って、砂浜につぎつぎに押し寄せる千々石湾の波を見ていた。今まで見たことのない広さと大きさを感じとろうとしていた。眼を見開いてしばらくじっとしていたが、やがて、私を振り返って言った。
 「おみず・・いっぱい・・・」
 
 このように子どもの「片言」というのは、拙い語彙の中で、母親に伝えたい訴えたいと思っている「ぎりぎりの言葉」だから、相手に通じるのである。「ぎりぎりの言葉」で言った「ほんとうのこと」が、大人から見れば、忘れていた純粋さだったり、大人が見ようとしない大人のずるさだったりで、大人の心をドキリとさせる。
 「片言」はまた、全てを言い終えるのではなく、どこか中途半端である。ポツンと言い放たれた言葉だからこそ、その「言い放たれた言葉」によって、刺激を受けた心は広がるのである。雨のひと雫が美しい波紋を水面に拡げるように、私たちの心に広がるものが「詩」である。
 俳句も盛りだくさんでなくていいのだ、ということは分かってはいるのだけれど、言い過ぎたり、言い尽くしてしまったり、飾り立てたりしてしまう。
 
 高浜虚子も、「ぬうっとして、ぼうーっとした句がいい」と言っている。だが、虚子の言うのは稚拙であってもいいというのではない。
 五・七・五という俳句の型を知り抜いた後にやってくる「大らかな自在さ」である。この域に達して初めて大人の俳句の「片言的」が可能となる。だから俳句って、簡単で難しいのだ。理屈で考える前に、一瞬で心を捉える俳句には不思議な魅力がある。
 大人の坪内稔典の、「三月の甘納豆のうふふふふ」が、理由もなく心をあったかくしてくれるように・・・。