第三百七夜 高野素十の「秋の晴」の句

 今年の9月は、残暑が厳しすぎて、まだ本当の「秋晴」を感じる日はなかったように思う。
 「秋晴」の例句を探していて気づいたことは、主題「秋晴」と、傍題に「秋日和」と「秋の晴」があったことである。
 「秋の晴」という言い方をあまり見ていなかったので気になった。
 講談社の『カラー図説 新歳時記』には、山本健吉が、「高浜虚子の〈ほのかなる空のにほひや秋の晴〉もあるように、「秋の晴」と特殊な言い方をした句もある。」と季題の説明をしている。
 季題を五七五のどこに入れるかによって、たとえば、「五・七五」と「五七・五」の形に入れる場合では、作品の感じが違ってくる。また、「秋の雲」と「秋雲」では、歳時記では「秋の雲」が主題になっている。何がどう違うのだろう。
 語の置き方の違い、それだけであろうか。
 
 今宵は、私自身が使ったことのない「秋の晴」を鑑賞の中で考えてみよう。

  船員とふく口笛や秋の晴  高野素十 『初鴉』 

 掲句は、高野素十の『初鴉』集中の作。素十の弟子であった倉田紘文の著書「高野素十『初鴉』全評釈」によれば、昭和10年にドイツ留学中のハイデルベルヒより投句されたもの。ある日、郊外に吟行して河下りを楽しんだ時の句であるという。
 句意は、秋晴れの気持ちのよい日、船員さんと一緒に甲板で口笛を吹いている。ドイツの歌だと思われるが、日本人も知っているメロディだったのだろう。「口笛」も「秋晴」の傍題もなんと明るい響きであろうか。

  掛けて久し父の遺影も秋の晴  深見けん二 『父子唱和』
  
 『深見けん二俳句集成』の中に季題「秋晴」の作品は15句と、季題の中では多い方である。そのうち、傍題「秋の晴」は4句、「秋日和」が一番多くて7句であった。
 季題「秋晴」は、秋の快晴の日は空気が澄んでまことに気持ちがよい、という日和のことである。
 掲句は、ある秋晴れの日曜日か休日、秋のお彼岸かもしれない。仏間にいつも掛けてある父の遺影を眺めながら手を合わせた後で、つくづく父が亡くなり、遺影を飾ってから随分と月日が経ってしまったことを思った。
 この作品を、「秋晴や」と心が跳ねているように詠むのは、どこか相応しくない。「秋の晴」としたことで、父のことをしみじみ思い、この美しい秋の晴れを、しみじみ見上げている姿となってくる。

 もう一句、主題である「秋晴」の作品を考えてみよう。

  ゆるむことなき秋晴の一日かな 深見けん二 『日月』

 この作品に出合ったとき、「秋晴の一日」の焦点の絞り方に驚いた。特別な描写があるわけでもなく、主観を述べているわけでもない。
 けん二先生に、俳句の作り方の一つに印象的な言葉がある。
 「あと5文字、あと7文字が浮かばない時があるが、そんな時には、意味を持たせない言葉、なんでもないような言葉がすうっと入っていると、いいのですよ。」と。
 掲句の「ゆるむことなき」が、特別な言葉には見えないが、必要不可欠な呟くような言葉ではないかと思った。
 季題の「秋晴」に、他の言葉の全てが収斂し、終には、ひれ伏しているかのようである。
 けん二俳句の特長で、句集を繙けば必ずこうした作品に出合う。一見すると地味で通り過ぎていきそうであるが、つっと立ち止まり、やがて読み手は、この作品の季題「秋晴」の虜になってしまう。