第十二夜 石井とし夫の「鳰」の句

  大いなる沼見せにゆく子づれ鳰  石井とし夫

 石井とし夫は、二十歳から「ホトトギス」で高浜虚子、高浜年尾、稲畑汀子と、代々の主宰の選を受けてきたホトトギスの俳人である。「沼」というテーマをもって五十年に亘る作品の中の、『かいつむり』『続かいつむり』、現代俳句文庫『石井とし夫句集』を、私はを読ませていただいた。
 深見けん二から「沼の詩人」とも呼ばれたとし夫の作品は、何十年もの間、地元民として印旛沼を愛し、沼べりに暮らす人々とその生活に温かい眼差しをもって詠み、その魅力を余すところなく見せてくれている。鴨、鳰、雪加、行々子など野鳥の宝庫で、とくに、十五種ほどの鴨が渡ってくる冬はにぎやかだ。

 「印旛沼は、とりまく風物も又平凡そのもので、私は大きな水溜りと思っている。」と言った、とし夫の文中の言葉に、アール・ヌーボーのガレやドームのガラスの器たちを想った。光のないところでは分厚く濁っているように感じるガラスが、美術館に展示されているときは器の下からの光線を受けて、それは美しく幻想的になるのである。
 印旛沼も、また自然の力でさまざまに光を放ちはじめる。
 鳰(かいつぶり)の句を見てみよう。

  板の如き沼に逆立ち鳰沈む
  かいつむりひかりとなつて浮びたる
  大いなる沼見せにゆく子づれ鳰

 一句目、風のない日の早朝であろう、鉛を延べたように真っ平な沼面を「板の如き」と捉えた。その静かな沼に鳰がふいに逆立ちをして尻尾を見せたかと思ったら、あっという間に潜って沈んでしまった。沼はまた、平らになり、どこから浮かんでくるかと待っていると、かなり離れて浮かび上がるのである。
 二句目、鴨などと比べても小さな鳰は動作がとても可愛らしい。浮かんでくるときは、水を跳ね、水滴が輝き、まさに「ひかりとなつて」浮かんでくる。
 三句目を、今回とくに、紹介させていただこうと思う。
 
 句意は次のようであろうか。
「鳰の親子づれが一列になって泳いでいる。きっと鳰の親が鳰の子たちに沼を案内しに行くのだ。」

 とし夫は、生まれた鳰の子に、親の鳰が「これからこの沼で過ごすのだよ」と、大いなる沼を見せに行くところなのだろう、と詠んでいるのである。そのように感じた作者・とし夫の心が素敵である。鳰の子や鷭の子に、孫に対するように目を細めて、印旛沼の隅々まで自慢して案内したいのは、本当はとし夫ご自身ではないだろうか。
 
 とし夫があとがきに書いた、日本画家小野竹喬の次の言葉が印象的だ。
 「昔私は、肩をいからせて自然を見た時代があった。虚心になると自然は近づいてくる」と。