第三百十夜 正岡子規の「秋二つ」の句

 明治28年、新聞「日本」の記者であった正岡子規は、明治27年に勃発した日清戦争の従軍記者として志願して出兵した。どうしても自分の目で戦というものを見て確かめておきたかった。
 だが、朝鮮半島へ到着したときには戦争は終わっていて、一行も記者として報道記事を書くことはなく帰国の途についた、その船中で鱶の群れを見た子規は喀血し、神戸港から神戸病院へ直行、その後は須磨保養院と、3ヶ月間静養した。重症の開放性結核であった。
 その後、病後の保養のために松山に戻った。子規が静養した先が、当時松山中学校で英語教師をしていた夏目漱石の下宿先の愚陀仏庵(ぐだぶつあん)で、その一階の部屋に同居した。
 松山では、「ホトトギス」の仲間の柳原玉堂たち、授業を終えた漱石も加わって、連日句会をしていたという。8月末から10月初旬までの50日ほど過ごした子規は、いよいよ、東京へ戻ることになる。
 
 今宵は、子規が松山の漱石との別れの作品を見てみることにしよう。

  行く我にとゞまる汝に秋二つ 『寒山落木』
 (ゆくわれに とどまるなれに あきふたつ)

 夏目漱石は、慶応3年、江戸(現在の新宿区)の生まれ。俳句は、明治22年に入学した第一高等学校で同期の、同い年の子規との交遊の中で作ったのが最初である。  
 子規の喀血後の静養のために、漱石と過ごした明治28年から、イギリスのロンドンへ留学する明治30年までの松山と熊本での教師時代が、子規の指導の下、漱石が俳句に最も熱を入れた時期であった。
 
 子規は、漱石の俳句の特色として「滑稽思想」と「意匠が斬新」であることを挙げて、雑誌「日本人」で称揚した。
 漱石が子規へ50句とか60句とか認めた句稿を送ると、すぐに子規は二重丸をつけて送り返してくれる。
 よい作品は、子規が選者をしている新聞「日本」の俳句欄に掲載された。当時は、新聞の俳句欄も俳句雑誌もまだ少ない時代だから、この教師時代の漱石は、虚子や碧梧桐たちとともに子規派を代表する有名な俳人であり、生徒たちの間でも知られていたという。

 句意は、次のようであろう。
 病が完治したというわけではないが、いよいよ、子規の母や妹、そして俳誌「ホトトギス」でも、虚子を始め仲間たちが首を長くして待っている。
 下五の「秋二つ」から、この松山を発ってゆく我(子規)にも東京の秋がある。そして松山にとどまる汝(漱石)にも漱石の秋という季節の下での其々の暮らしがある。
 運命と言ってよいのかもしれない。
 さあ、それぞれの秋に向かっていざすすまん。
 
 「秋二つ」は、抽象的な言い方であるが、受け取る側からすれば其々に事情も違うから、こうした言い方の方が、すっと心に入ってくるような気がする。