第十三夜 角川春樹の「冬桜」の句

 小石川後楽園の入口近くに冬桜があった。十二月は忘年会も兼ねるので吟行句会はこの庭園と決まっていた。訪れる度に眺めていた冬桜は、老木だったのであろう年々に花の数が少なくなり、ついに庭園から冬桜の姿はなくなった。私が冬桜を知ったのはこの木が初めてであり、その後、立冬が過ぎた頃に桜の花を見かけると、冬桜かしら帰り花かしらと、しげしげ眺めてしまう。

 日本中に咲き乱れ、日本人の心を圧倒する春の桜は「ヤマザクラ」「ソメイヨシノ」「サトザクラ」などだが、初冬になって枝先や幹にほつほつと花をつけることがあって、それを「返り花」と呼んでいる。その淋しい咲きようと「冬桜」の花とが、どこか似通っているのだ。
 
 冬桜は、「ヤマザクラ」と「マメザクラ」の雑種で、初冬と春の2回咲くが、とくに冬に開く桜を冬桜と言う。花は小さく白色の一重咲きで、彼岸桜にも似ている。桜といっても春爛漫の頃の桜よりずっとさびしい趣があり、枝にちらほら咲くのは何とも可憐である。関東地方では、鎌倉の報国寺の大木や、群馬県鬼石(おにし)町の桜山公園にある七千本もの冬桜はことに有名で、冬のお花見のスポットである。
 しばらく前の初冬、鬼石の冬桜を見に出かけたが、これほどの桜が満開であるというのに、行けども行けども、静かな佇まいであった。

 角川春樹の「冬桜」は、まことに冬桜の本意をずばり言い得た作品である。
 歳時記の季題「冬桜」の傍題に「寒桜」がある。寒桜は、「オオシマザクラ」と「カンヒザクラ」との雑種で一月頃から咲くものもある。ピンク色の花びらがいっぱい。

 「寒桜」の作品をいくつか見てみよう。

  山の日は鏡のごとし寒桜  高浜虚子
  月光の玉くだけちる寒ざくら  石原八束
 
 一句目、寒桜や冬桜の美しく感じられる時とは、冬空に鏡のように美しい日(太陽)がある時ではないだろうか。寒桜を見ている虚子は、即ち、鏡のような日輪を見ているのだと思った。
 二句目、八束の句は、みっしりと咲かない冬の桜を「月光」が砕け散った破片に喩えた。空気の引き締まった冬桜の硬質な感じがでている。

 また、「返り花」(「帰り花」とも)の句も見てみよう。

  人の世のけがれどこかに返り花  鷹羽狩行
  返り花きらりと人を引きとどめ  皆吉爽雨

 一句目、鷹羽狩行(しゅぎょう)は、いつの間にか咲いている桜の「返り花」を見ている。冬はことに目立つ桜のごつごつした幹の肌に「返り花」はくっつくように数輪咲いている。人間も長く生きていれば、いつの間にか人生の垢のようなものがついてしまうことを考えた。狩行は「人の世のけがれ」と詠みながら、否定はしていない。むしろ、暖かな眼差しさえ感じる。人生はそういうものだと、この句が首肯させるのは「返り花」の季語の力であろう。
 二句目、皆吉爽雨(そうう)は、小春日和の暖かいある日、返り花に気づいて、はっとして立ち止まった。時ならぬ時に咲く、気づかれないのに咲いている、あえかな美しさがあり、冬の寒さの中で凛として咲く佇まいのある美しさでもある。
 
 冬に咲く桜に、冬桜と寒桜と返り花の桜がある。さらに、まぎらわしい頃に美しく咲く十月桜というのもある。桜大好き人間の私としては、もっともっと多くの桜と出会い、きちんと調べなくてはと、思っている。