第三百十三夜 高浜虚子の「吾亦紅」の句

 植物の名を詠み込んだ俳句の中で、一番先に名の面白さに惹かれたのが高浜虚子の「吾亦紅」であった。所属結社の「花鳥来」で、私が、高浜虚子編『新歳時記』の中から選んで一句鑑賞をした作品である。
 
 今宵は、花の名の由来を考えながら、名句を鑑賞してみよう。

  吾も亦紅なりとつひと出て  高浜虚子 『五百五十句』
 (われもまた くれないなりと ついとでて)
 
 『源氏物語』にも出てくる古い名称である。「吾木香」、「我毛紅」、「我妹紅」など様々な表記があるが、現代では「吾亦紅」とすることが一般的である。
 
 句意は、「吾も亦紅なり」と、「吾亦紅」の字面から感じられる花の名のままを一句にしてしまっているが、その通りである。
 下五の「つひと出て」は、秋の草原に細い茎を伸ばして立っている、吾亦紅の姿である。茎の先には、丸い赤黒い玉のような穂のような花をつける。「われもまたくれない」から、虚子の俳句への、まっすぐな誇りと立ち姿を感じたものだった。
 
 昭和3年に、虚子は「俳句は花鳥諷詠詩である」と宣言した。難しい言葉を使わなくても俳句は俳句なのに、という気持ちが私の心にも過ぎったことは事実である。
 その後、随分と長い間、悩みながら、俳句の基本は「よく見る」ことであり、その際には「主観を入れない」という「客観写生」の詠み方を学んできた。
 「まず見る」ことの大切さを大事であると思うようになった。。
 「吾亦紅」の花の名のごとく、俳句の道をまっすぐに進んでいきたい。

  紅いのも白いのも散り鳳仙花   細見綾子 『桃は八重』

 鳳仙花(ほうせんか)は、かつて、どこの家の庭にも植えられていたような気がする。こぼれ種でも育つという花だが、葉が多く、華やかな花ではなく、どちらかというと目立たない花だ。ガーデニングでも花壇の主役にはならないし、切り花にして室内に飾るわけでもない。
 だが子どもたちは、ちゃんと知っていた。遊んだことも覚えている。

 細見綾子の句のように、鳳仙花は、紅いのも白いのもピンクの花もある。その美しい花たちが散ってしまった。
 やがて果実ができ、実は弾けて種を遠くに飛ばすようになる。果実がパンパンになって今にも弾けそうになると、すかさずやってきた子どもたちは、親指と人差指で触れてみる。
 すると実は小気味よく爆ぜる。これがじつに楽しい。
 
 鳳仙花の名の由来はいくつかある。
 一つは、この「触れると弾く」という特徴で、属名の”Impatiens”は、「我慢できない、せっかち」の意味がある。だから「触れたら弾く」となるのであろう。
 
 一つは、中国語「鳳仙華」の音読みで、鳳凰と仙人の2語が合わさった言葉に拠るという。鳳凰は、花の形が、想像上の鳥である鳳凰の羽ばたく姿に似ているからであり、仙人は、中国の昔話に由来している。
 この由来を知って、近づいて眺めると、花の形の美しい可憐な花であることがわかった。
 
 もう一つ「爪紅」「つまべに」「つまくれない」という言い方がある。江戸時代からすでに、鳳仙花の花びらと酢漿(かたばみ)の葉を合わせて、今で言う紅いネイルの液を作って、爪を染めていた女人たちがいたという。
 
 秋に咲く、一見すると目立たない花には、このような名の由来があった。