第三百十八夜 高浜虚子の「芋蟲(いもむし)」の句

 『喜寿艶』は、虚子が77歳の喜寿を記念して造られた句集である。明治26年から昭和24年までの77句プラス制作年不詳の1句を加えた78句が収められていて、奇数ページには虚子の自筆、偶数ページには作品と短い自解が入っている。
 虚子特有の語り口の作品から、艶な女人の姿が立ちのぼってくる。
 
 今宵は、『喜寿艶』から作品を紹介してみよう。

  命かけて芋蟲憎む女かな  『五百句』昭和11年

 昭和11年9月11日の作。「草樹会」とは、大正11年に結成された「東大俳句会」が昭和7年に改名した俳句会であり、ホトトギス社の入っている東京駅の丸ビル集会室で虚子の指導する句会である。吟行句会ではなく、兼題が前もって与えられる。
 この日の兼題は「芋虫」、秋の季題である。 蝶や蛾の幼虫のうち、毛や棘のないものの総称。特に、サツマイモの葉につくスズメガ類の幼虫をいう。うっかり触ることがあっても、ふにゃっとした感触に触れてみたいとは思わない

 掲句の虚子の自解は、
 「芋虫のきらひな女。芋虫のことをいうただけでも消え入りさうになる女。」である。
 
 「命かけて憎む」とは、芋虫を触ることはもちろん、見るだけでも絶対にイヤ、気持ち悪くて死にそう、と言う、そんな女なのであろう。
 虚子の自句自解の「消え入りさうになる女」は、男性に媚びるわざとらしさも見えるが、現代の男性には、すぐにキャーっと叫ぶ女を僕が守る、という風潮はないようだ。
 他人ごとなら眺めていて面白い女である。
 虚子の女性の観察力は、仮借などなく冷静で鋭いものがあるが、この様な女性が好みかどうかは全く別だと思う。

 この『喜寿艶』には、「さういふ女」で終る作品がいくつかある。
 
  死ぬること風邪を引いてもいふ女 『六百句』昭和17年
  
  虚子の自句自解は、
 「風邪を引いても、もう今度は死ぬるかも知れぬといふ。さういふ女。」である。

 コレラの作品は、大正3年7月5日の虚子庵での句会の兼題であったのだろう。『五百句』に3句が並んでをり、『喜寿艶』には、最初の1句がある。

 1・コレラ怖ぢて綺麗に住める女かな 『五百句』大正3年
 2・コレラ船いつまで沖に繋り居る
 3・コレラの家を出し人こちへ来りけり

 1の、虚子の自解は、「神経質な綺麗ずきの女。」である。江戸時代の末期から明治時代にコレラ菌が、日本に入り、明治時代のコレラに因る死者は57万に達したことがあったという。
 令和2年の今、世界中に広がっているコロナ禍からどうして身を守るか、私たちが日々実践していることと同じように、まず、コレラ菌が入ってこないように移すことのないように自ら身ぎれいにと心がけていた。
 「神経質な綺麗ずきの女」は、コレラにもペストにもコロナにも正しい処し方であろう。

 2・鎖国時代の日本の港で、外国船の出入りが許されていたのは、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の5箇所。長崎には出島があった。当時、海を埋め立てて作った島で、本土とは橋1つでの行き来で、隔離されていた。
 3・今でも、コロナ患者の出た家人は地域から除け者にされることもあるという。難しい問題である。