第三百十九夜 高浜虚子の「稲妻」の句

 今宵も、「女」を詠んだ虚子の句を紹介してみよう。

  稲妻をふみて跣足の女かな 『五百五十句』昭和12年
 (いなづまを ふみてはだしの おんなかな)

 昭和12年9月11日。二百二十日会は、丸ビル集会室で行われた。
 句会名「二百二十日会」は、赤星水竹居の発案により新橋の芸妓の多い句会。1回目に集合した日が、台風のよく来る二百十日であったことから付けられた。下田実花も会者の一人。
 「稲妻」の兼題であった。「稲妻」は秋の季題。
 
 句意は、稲光の中を踏んでゆくように、跣足の 女人が、歩いていますよ、となろうか。

 「稲妻」は、雷鳴はなく暗い夜空のあちこちにひっきりなしに落ちる稲光である。雨は降ってはいない。「いねつるみ」とも言い、稲が稔るころによく光るという。
 その稲光の中を、跣足の女がどこかへ向かってひたと歩いている。その姿は狂気すら漂っている。上五中七の「稲妻をふみて跣足の」が、実際にはどういうことなのだろう、人間が稲妻を踏めるはずはないから、わかりにくく感じられた。

 『喜寿艶』では、虚子はこう自解している。
 「稲光がひつきりなしにしてゐる。何かただならぬ跣足の女が一人歩いて居る。その跣足は稲妻の上を踏んで。」

 高浜虚子著『虚子百句』(便利堂刊)に、星野立子の次の解釈がある。一部を引用させていただく。

 「貴船の宮に詣つてゐる鉄輪の女を想像します。(略)その光を踏んで、跣足の女が、稲妻の光で見えたり見えなかつたりしてゐる物凄い景色であります。稲妻を踏みてといつたのは、稲妻の落つる大地を踏んで、といふのを簡潔に力強く云つたのであります。この女は嫉妬の鬼とならうとしてゐるのかも知れません。ある急な場所に跣足で一人で闇夜を稲妻の光をたよりに誰も通らない所を駈けて行つてゐる女を想像します。」

 この立子の鑑賞にある能『鉄輪(かなわ)』は、他の女に夫を盗られて嫉妬に狂い、呪いをかけようと鉄輪をかぶった鬼となった女の話である。京都の貴船神社が舞台である。
 「稲妻をふみて」は、稲妻の光の中を歩く姿が、あたかも稲妻を踏んでいるように見えるということだ。思い切った把握の、しかも力強い主観も籠めた言葉であったのだ。
 狂うほどの嫉妬、あるいは狂うほどの悲しみは、それに匹敵するほどの自然の猛威とか狂気に身を置いた言葉によってしか、心が鎮まることはないだろう。
 強さには強さが必要なのではないだろうか。
 
 虚子は、女のさまざまな姿を描き出してゆく。ものしづかなお方であるが、じつに細かいところを見たり聞いたりしている。描写のほとんどが、素通りしてしまうふつうの事柄が多い。
 そうした1句1句が作品になると、愛すべきであり、哀れであり、純真であり、一生懸命であり、怒っていたり、悲しんでいたりしているのだから不思議である。