第三百二十二夜 軽部烏頭子(かるべうとうし)の「鰯雲」の句

 出会った鰯雲で、今でも思い出すのは、寄居の父母の墓参からの帰途、関越自動車道の花園インターチェンジに入った直後から、長くて巨大なスケールの鰯雲の下をかなり長いこと並走したことである。
 鰯雲を眺めていると、いろいろな気持ちになる。何かよいことが訪れそうとか、この恋は振られてしまうかなとか。鱗と鱗の隙間の青空が美しかったり、夜空の鰯雲の間から一等星がちらちらしたりしているときなどは、いつまでも眺めていたくなる。
 ハイウェイで頭上に鰯雲をのせて走ったときは、何かから、逃れられない気持ちが生まれたような気がした。
 だが、もの思わせてくれる鰯雲は雲の中で一番ステキだと思う。
 
 季題「鰯雲」の例句を調べているとき、平井照敏編著『新歳時記』の中に軽部烏頭子の作品に出会った。独特の感性に惹かれた。
 
 今宵は、軽部烏頭子の作品を鑑賞してみよう。

  鰯雲予感おおむねあざむかず

 「予感」とは、前もって何となく感ずることである。鰯雲の下にいると何やかやともの想う。不安もあるが、多くは自らの準備不足であったり、力不足であったり、その予感は、相応なのであって、とんでもなく大きなご褒美になることはない。
 それが「おおむねあざむかず」の解釈であろう。

  毛虫行きぬ毛虫の群にまじらむと 『灯虫』

 薔薇園への道を横切ろうとしたとき、大きな毛虫がせっせせっせと全身をゆり動かして同じ方向へ進んでいる。お先にどうぞと、毛虫が道の向こう側へ着くまで眺めていた。どこへ行くのだろうと思った。
 烏頭子さんのこの句に、はっとした。向こう側には仲間のいる木があるのだろう。この毛虫は、木から落ちた拍子に人間の身体に落ちた毛虫で、やっと人間から離れることのできた毛虫は今、仲間のいる木に戻るところだったのだ。
 幼い頃、庭の梅の木にぐちゃぐちゃと群れている毛虫にぞっとしたことを思い出した。
 これが正解かどうか、「毛虫の群にまじらんと」をそう解釈してみた。

  蝌蚪流れ花びらながれ蝌蚪ながる 『灯虫』

 沼の端っこに蝌蚪の紐を見つけた。村上鬼城の「蝌蚪の大国」という小文が好きで、見届けたいと通い続けたことがある。ある日、蝌蚪は紐を離れて、小枝に頭をくっつけて群れている。次に行ったときは、枝を離れて一匹ずつ水に流れていた。ちょうど、桜の落花の頃で、この作品の景であった。黒とピンクと水の青さとが、美しかった。

 軽部烏頭子(かるべ・うとうし)は、明治24年(1891)-昭和38年(1963)、茨城県生まれ。本名は軽部久喜(くき)。東京帝大卒。「ホトトギス」に投句を続け、昭和6年、水原秋桜子(しゅうおうし)が「馬酔木(あしび)」を創刊するとき筆頭同人となった。茨城県土浦市の内科医。句集に『灯虫(ひむし)』など。