平成元年、私の俳句の一歩は、カルチャーセンターの深見けん二教室から始まった。その年の秋、次回の兼題は「虫」であった。
ある夜、仕事が一段落したので、外へ出ようと玄関を開けた。
その途端だ。鳴く虫の一斉攻撃に襲われた。私は、「まず名を名乗れ、それから代わりばんこに鳴いてくれないか」といった俳句を作って、出席した。句稿が回る度にくすくす笑い声がする。さて、一点も入らずに句会は終わった。
「この俳句はどなたのですか?」
「はい、みほです!」
今夜も、犬と一緒に、野原と畑と雑木林の道を、虫の音を聴きながら満月を見上げながら歩いてきた。今でも、「これはコオロギ」「これはスズムシ」などと、直ぐには言えない。「名を名乗れ」と言いたい。
今宵は、珍しい季題の1つである「蚯蚓鳴く」の作品を紹介してみよう。
究極の俳は蚯蚓の啜泣 乾 裕幸 宮坂静生編著『秀句350選 虫』
(きゅうきょくのはいは みみずのすすりなき)
明治時代になって、正岡子規が「俳諧の連句」の発句を「俳句」としたが、もとは滑稽を本質とする俳諧、「俳」の心もまた俳句には必要かもしれない。
季題「蚯蚓鳴く」は、本当は蚯蚓は鳴かないので空想的な「俳」の季題である。
句意は、「俳」の中でこれぞ一番と思うものは、声を立てずに啜り泣く蚯蚓である、となろうか。元々、鳴かない蚯蚓だから、「蚯蚓の啜泣」とした。
乾裕幸(いぬい・ひろゆき)は、昭和7年(1932)- 平成12年(2000)、和歌山県伊賀郡の生まれ。国文学者、元関西大学教授。井原西鶴や松尾芭蕉などの俳諧が専門。著書は多い。編著に蝸牛俳句文庫『榎本其角』『井原西鶴』がある。
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎 『川端茅舎句集』
(みみずなく ろくはらみつじ しんのやみ)
東京生まれの茅舎だが、京都の東福寺に滞在したり、岸田劉生に油絵を習っていたのも、東京大震災で避難した京都であった。
六波羅蜜寺は、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。創建者は空也上人。明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域を縮小され、茅舎が訪れたころは、改修工事はまだ先の話で、荒れていたと思われる。茅舎は、六波羅蜜寺に「しんのやみ」を感じたのであろう。
季題は「蚯蚓鳴く」であるが、実際には鳴かないことを知っている茅舎だから、螻蛄ではなく、音のない真闇であったことがわかる。
蚯蚓鳴くかなしき錯誤もちつづけ 山口青邨 『繚乱』
『繚乱』は、80代前半の山口青邨の句集。青邨は何でも俳句に詠んでみよう、という常にこれまで知らなかったことや新しいことに挑戦する俳人であった。『山口青邨季題別全句集』には、「蚯蚓鳴く」は、第11句集に3句、最後の第13句集に1句、と後半に詠まれている。
句意は、蚯蚓は本当は鳴かないのに、「蚯蚓」が「鳴く」ものであるという錯誤のままに、だが楽しい錯誤のままに俳句の世界で季題として生き続けている、ということになろうか。
「蚯蚓鳴く」は、じつは螻蛄の鳴き声であるという。螻蛄の鳴き声は、まるで耳鳴りのごとく地中で「ジ―、ジー」と鳴いているが、それは、恨むようにも聞こえ、じっと堪えている嗚咽のようにも聞こえる。