第三百二十四夜 飯田龍太の「満月」の句

 地球は、1日に1回、自転しながら1年かけて太陽の周りを回っている。月は太陽の光に照らされて、約1と月かけて地球の周りを回っている。すると、月に太陽の光が当たるのは1と月の半分で、月は15日をかけて大きくなりながら満月になり、また、15日をかけて欠けながら全く月が見えない新月となる。
 
 私たちが夕暮の暗さのなかに見る細い月は、全く見えない新月から3日目だ。毎日眺めていると、1と月のなかで月の見えない日はほんの数日ということになる。こんなに身近なのに、俳句を作る以前は、ほとんど満月の頃にしか見向きもしてこなかった。

 今宵は十五夜、陰暦15日の夜。満月の夜である。いくつか紹介してみよう。

  満月やなまなまのぼる天の壁  『飯田龍太全句集』
  
 先程、私は、十五夜の月の出を利根川の土手で見てきたばかりである。昼間は雲が多かったのに、夕方には地平線まで晴れ渡っていた。
 中七下五の「なまなまのぼる天の壁」の措辞には、新鮮な驚きと、強烈なインパクトを感じたが、今は納得している。

 紺青の、まさに「天の壁」を金色の満月がしずしずとのぼってゆく。登る動きは目には見えないけれど、いつのまにか金色の物体は少しずつ上にいる。カタツムリの動くような「なまなま」という措辞も不思議ではなくなっていた。
 この作品は、満月の出始めの、朱を帯びた金色の月であろう。天上に上ってしまうと、月は淡い黃色となる。

  はなやぎて月の面にかゝる雲  高浜虚子 『五百句』
  
 「昭和3年10月7日、福岡市公会堂に於ける、第二回関西俳句大会に出席。」の日の作。
 月を仰ぐとき、雲一つない晴天というのも珍しいことである。
 「はなやぎて」と詠い出したことから、煌々とした満月であったのだろう。月の面を過ぎてゆく雲も白じろとして美しく、白い雲があることで、満月の夜はいよいよ華やいでみえる。

  たれこめし雲にも月のありどころ  深見けん二 『日月』

 雲が垂れこめていて、残念な気持ちで空を仰いでいると、ひとところ雲の明るいところがある。そのままずっと眺めていると、雲は弛むことなく動きつづけているから、ふっと薄くなった雲間に月が姿を現してくれることだってある。
 1句目の虚子、2句目のけん二俳句をみていると、吟行で、どのような月に出会ったとしても落胆することはないと思わせてくれる。

 虚子の教えに「眺めゐる=眺め入る」がある。眺めるだけでなく、もう一歩深くその状態に入り込むことなのだと、やっと「入る」が分かったような気がしている。
 
  月に行く漱石妻を忘れたり 夏目漱石 『漱石全句集』

 似たような威張った夫というものは、どこにもいるのだと可笑しくなった。
 長年暮らしていると、夫側に悪気はないようである。月が見たいのであれば勝手に付いてくればいいさ、というほどの心持ちである。
 この作品の佳さは、「漱石」という小説家である自分の名前を入れたところであろうか。