第十五夜 村上鬼城の「蝌蚪」の句

  川底に蝌蚪の大国ありにけり  村上鬼城

 十一月の初め、久しぶりに牛久沼に出かけた。沼の端はあやめ園があるが、この時期には沈殿した泥の表面の水は澄んでいて日の光を弾いていた。
 私は、ここに大きな蝌蚪の紐があったことを思い出した。或る年の春先、この沼の隅で見つけた、蛇のトグロのような寒天状の気味悪い物体が蝌蚪の紐という蛙の玉子である。村上鬼城の有名な「蝌蚪の句に」のことだ知りたくて、毎日のように通った。

 作品の句意はこうであろう。
「川底を覗いてみたら、蝌蚪の紐から孵った何百何千万匹ものお玉杓子の尻尾が黒い塊りとなってひらひらして、まさに「蝌蚪の大国」でしたよ。」

 紐から孵ったばかりのお玉杓子の何と小さかったこと、蝌蚪の紐というのは、蛙が藁に産み付けた玉子だったのだ。解けた紐の藁に、孵ったお玉杓子たちがびっしり頭というか鼻先をくっつけて揺れている姿は、人が群れている巨大な黒い渦のようであった。これが「蝌蚪の大国」だったのだ。
 その後の成り行きも知りたかった私は、しばらく通った。数日後には藁から離れるお玉杓子がいて、水の様子を探るように泳いでいた。やがて、手足が出てきた。まだ尻尾はくっつけたままの蛙の子だ。さらに数日後、蛙の子の数がずいぶん少なくなっている。
 どこへ行ったのだろう。沼を管理している人に聞くと、向こうの丘の森に上がって行ったんだよ、と教えてくれた。

 鬼城は蝌蚪日記をつけており、その中の「寂寞山荘夜話」に、手足が出た蛙の子がある日一団で夜逃げする不思議を、「造化のする仕事に、一として、不思議でないものはない」と言い、メーテルリンクも、詩で一番大事なものは不思議ということだと言ったと、書いている。
 
 村上鬼城は慶応元(一八六五)年、江戸の生まれ。明治維新後に軍人を志すが、耳疾となったため断念。さらに耳聾が災いして終に司法官の道も断念。高崎で、父の後を継いで三十歳で代書業に専念する。
 俳句を始めたのは明治二十八年、新聞「日本」で正岡子規に教えを請うたが、本格的に鬼城が俳句や写生文に専念したのは、明治三十年に「ほととぎす」が刊行されて以降のことである。大正二年、高崎の俳句会に出席した高浜虚子に励まされ、〈生きかはり死にかはりして打つ田かな〉〈冬蜂の死にどころなくあるきけり〉などの格調高い境涯詠により「ホトトギス」で活躍。

 耳聾のため、「境涯句の鬼城」と言われる作品中には、この「蝌蚪」のような楽しい句にも出会う。