第三百二十五夜 川端茅舎の「貝割菜(かいわりな)」の句

 第2句集『華厳』の虚子の序はただ一行、「花鳥諷詠骨頂漢」である。
 茅舎は、この序文を非常に喜び、後記に「一本の棒のような序文は再び自分に少年の日の喜びを与えて呉れる。さうして花鳥諷詠する事も亦一個の大丈夫(だいじょうぶ)の道かといふ少年の日の夢を与えて呉れる」と書いた。「大丈夫」とは、立派な男子という意味。
 山本健吉が言ったように、茅舎は、画業で培ったひたすら対象を視る「目の忍耐」ができていた。さらに画業の師の劉生から、自然の美とは、諸現象とわれわれの心が合致して生まれた暖かき子どもであり「内なる美」の表現されたものであることを、学んでいた。
 岸田劉生著『美の本体』は難しいが、娘の麗子に聞かせたという「私は天で虹を描いていたのだよ。あまりこの世がきたないので、神さまが私をこの世におつかわしになった」という話ならわかる。まさに真の美を求めた劉生であり、無垢な心で病苦も見せず、高邁な詩精神で作句した茅舎に似つかわしい。
 
 今宵も美しい月夜、誰もが茅舎の貝割菜の句はご存知だと思うが鑑賞してみよう。

  ひらひらと月光降りぬ貝割菜  『華厳』
  
 茅舎の句の中で、私の好きな作品の1つである。
 句意は、月光がひらひらと貝割菜の上に降り注いでいますよ、というシンプルな作品である。季題は「貝割菜」。大根や蕪などの芽が出たばかりの二葉のこと。
 美しさと静けさと、未来へつなぐ命への優しさがある。素晴らしい月夜は出合いであるが、満月をじっと眺めていると、ひらひらと見える月光は、白炎を立てているようにも、白い羽毛が落ちてくるようにも、白い花びらが降って来るようにも感じる。
 
 草田男は、茅舎の世界を「茅舎浄土」と称した。浄土とは仏が住む欲望や苦しみのない世界である。たとえば、〈ぜんまいののの字ばかりの寂光土〉の作品の「のの字ばかり」のぜんまいは仏の頭がずらり並んでいるようにも想像できる。
 寂光土は、キリスト教で言えば天国であろう。
 
 露の句26句を冒頭にずらりと並べたのが、第1句集の『川端茅舎句集』である。茅舎の句で、「露」の代表句を逃すことはできない。
 
  白露に阿吽の旭さしにけり  『川端茅舎句集』
 (しらつゆに あうんのあさひ さしにけり)
 
  金剛の露ひとつぶや石の上
 (こんごうの つゆひとつぶや いしのうえ)
 
 『川端茅舎句集』における露は、儚さという本意より、むしろ、丸々とした気力漲る露の玉である。
 虚子は序で、「収録されてゐる句は悉く飛び散る露の真玉に相触れて鳴るような句ばかりである」と書いた。
 茅舎が露の季題を多く詠むようになるのは脊椎カリエスの発病以降のことで、病苦から逃げることは出来ず、茅舎はあるがままの情況を受け入れざるを得なかった。
 虚子は、花鳥諷詠の特質の1つを「極楽の文学」とした。それは、一たび心を花鳥風月に寄せる事で、生活苦も病苦も忘れ、一瞬時でも極楽の境に心を置くことが出来るからという。
 
 川端茅舎(かわばた・ぼうしゃ)は、明治30年(1879)-昭和16年(1941)、東京日本橋の生まれ。画家の川端龍子は12歳上の異母兄。当初医学を目指していた茅舎は、大正4年、進学を諦めて藤島武二絵画研究所へ通い、後に、岸田劉生に師事。俳句は、大正3年頃から父の寿山堂に習い、大場白水郎の「藻の花」、飯田蛇笏の「雲母」、「ホトトギス」など数カ所へ投句。京都では東福寺正覚庵に寄寓し参禅もした。大震災後に京都に住んだ劉生や西島麦南らと、画業と共に句作にも精進、大正13年には〈しぐるゝや僧も嗜む実母散〉など6句で、「ホトトギス」11月号で初巻頭。

 だが、昭和4年に茅舎は病弱となり、絵画の師劉生も亡くなった。失意のため画業はせず俳句に専念。昭和5年、〈白露に阿吽の旭さしにけり〉が巻頭。その後は他の俳誌への投句は止め「ホトトギス」一辺倒になる。昭和6年、脊椎カリエスで昭和医専に入院、秋桜子との出会いがあった。退院後は自宅で病臥生活。