第三百三十夜 永田耕衣ほか3人による「酔」の句

 今宵も、昨日に続いて蝸牛社刊のテーマ別シリーズから、辻桃子編著『秀句三五〇選 酔』を紹介してみようと思う。
 「酔」の入っている作品は案外に少なかったという。「酔」のテーマの句をどのように探したか、一部であるが、桃子氏の解説を掲載する。
 
 表現の本質は俳句にかぎらず、陶酔であるにちがいない。それを俳句のようなこんな短い詩の型で表現するには、すべてを言ってしまってはだめだ。エッセンスだけを言って、あとは読者の自由な想いに委ねなければならない。すると、常に1句の本質は語られずに余情として漂うことになる。
 きっとどの句も、酔は言葉では表されず、言外にひっそりと隠され、解る人には解るのだ、といふふうに秘められているのである。そこで私は、まったく酔の句としては書かれていない句でも、私を酔わせる句を「これは酔の句である」として、独断と偏見で選ぶことにした。
 
 桃子氏を酔わせた作品を、氏の言葉で紹介させていただく。
 
 1・夢みて老いて色塗れば野菊である  永田耕衣
  
 野菊は、紫色の花弁に黃色の芯のある繊細な野生の菊。秋の日射しに酔って野辺をいろどるさまは、ひなびていて清楚である。傘寿の祝を越えた耕衣翁がその生をふりかえるに、まさに、わが人生は、夢みつつ老いて、色を塗ってみるなら、さながら野菊のようなものであったというものである。野菊のように夢みつつ生に酔うてきたのであると。【野菊・秋】
 
 2・すさまじき垂直にして鶴佇てり  斎藤 玄(げん)
 (すさまじき すいちょくにして つるたてり)
 
 すさまじは、冷まじ、荒む、凄まじを語源として晩秋の冷然、凄然、荒然とした感じを表す季語である。今、秋の終わりの冷え冷えした空気の中に一羽の鶴が佇っているのである。無駄なものを一切省いたようなその純白な姿は、まるで凄まじいばかりの一本の垂直の線のごとく。その冷然とした垂直の孤高に鶴は酔うように、玄もまた酔うように。【すさまじ・秋】
 
 3・月光のどの石垣も蛇眠る  今井 聖

 この石垣、機械で組んだような、整然とした新しいものではない。荒々とした石を積み上げ、苔にまみれて、その石の間にはたくさんの蛇を棲まわせている古いものだ。今、そこに蒼白い月の光がさしかかっている。その奥に眠る蛇の一匹は蒼白の蛇にちがいない。酔うような月光。酔うような蛇の眠り。もしかしたら、石垣は作者の胸中の、そして、私の胸中の石垣である。【月光・秋】

 4・降りやめば月あり月をまたふぶき  高桑蘭更(らんこう)

 吹雪の夜である。ふと雪が降り止んだかと思うと、はらりと晴れてぽっかりと月が浮かび見えるのである。なんという酔うようなうつくしい冬の月よ、と思っていると、その月をけぶらすように、また雪が降りはじめてみるみる吹雪く、そんな夜である。雪は月に、月は雪に、そしてそれを見る人は雪に月に、酔うような夜である。【吹雪・冬】  
  
※作者・註
 1・永田耕衣(ながた・こうい)は、明治33年(1900)-平成9年(1997)、兵庫県加古川市生まれ。俳句は大正元年より。戦後は「天狼」同人、昭和25年、「琴座(りらざ)」を創刊主宰。
 2・斎藤玄(さいとう・げん)は、大正3年(1914)-昭和55年(1980)、北海道函館市生まれ。昭和18年、「鶴」に参加、同人。第14回蛇笏賞を受賞。
 3・今井聖(いまい・せい)は、昭和25年(1950)、新潟県生まれの鳥取市育ち。俳人、脚本家。「寒雷」を経て、平成8年、「街」を創刊主宰。
 4・高桑蘭更(たかくわ・らんこう)は、享保11年(1726年)- 寛政10年(1798)、江戸時代中期~後期の俳諧師。