第三百三十一夜 向井去来の「花薄(はなすすき)」の句

 令和2年8月、長崎県島原市にある夫の両親の墓参りをした。妹夫婦の案内で島原、雲仙、長崎を案内してもらったが、中2日という短い旅であり、遠回りをすれば日見峠の「去来の芒塚」を見ることはできたが、ハイウェイをぬけて長崎市へ直行した。

 残念ではあったが、昭和30年に高浜虚子が博多、熊本、長崎の旅の途中で詠んだという〈芒塚程遠からじ守るべし〉や、明治41年に詠んだ〈凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり〉を思い出した。虚子には珍しい25字もの長い字余りの作品である。
 京都旅行では、「西国三十三ケ国の俳諧奉行」とあだ名された去来の住いであった「落柿舎」を訪れたとき、小さな墓に驚いた。お墓ばかりでなく、室内に置かれた物のじつに簡素であったことも驚いた。

 平成9年に蝸牛社刊行の『蝸牛俳句文庫 去来・凡兆』は、当時、ノートルダム清心女子大学教授、鹿児島大学名誉教授であり、『芭蕉と蕉門の研究』『去来先生全集』他多数の著作をもつ文学博士の大内初夫先生が編著者としてお書きくださった。
 
 今宵は、大内初夫先生の学問的な鑑賞を援用させて頂きながら作品を紹介する。
 
  君が手もまじる成べしはな薄 『猿蓑』
 (きみがても まじるなるべし はなすすき)
 
 季題は「花薄=秋」。この作品は去来の故郷の日見峠に句碑となっている。かつて、虚子が立ち寄った「芒塚」である。ホトトギスの門人ばかりでなく、300年以上も昔の芭蕉の高弟である。芭蕉の俳句論をまとめた『去来抄』はいわば俳句界の宝物。全国から、旅の途中で立ち寄っては花を手向けたであろう。
 掲句には、「つくしよりかへりけるに、ひみといふ山にて卯七と別(わかれ)て」と前書。卯七とは、去来の義理の従兄弟。
 句意は、遠く見返ると風に靡く一面のススキ、その白い穂波の中に、別れを惜しんで打ち振る君の手もまじっていることであろう、となる。

  あらそばの信濃の武士はまぶしかな 『花摘』

 季題は「蕎麦=秋」。「あらそば」は、「新蕎麦」のこと。前書に「甲陽軍鑑をよむ」。『甲陽軍鑑』は武田信玄・勝頼の事績を記した軍学書。蕎麦は信濃(長野県)なので枕詞のごとく用いてある。「まぶし」は真武士と、りっぱなのでまともに見ることのできない、意のまぶしいを掛けている。
 句意は、『甲陽軍鑑』に描かれた信濃の武士は、立派な武士で、まぶしいほどである、という意。

  湖の水まさりけり五月雨 『阿羅野』
 (みずうみの みずまさりけり さつきあめ)
 
 季題は「五月雨=夏」句意は、降り続く梅雨に広大な琵琶湖も水嵩が増したことだ、という意。
 梅雨時の琵琶湖の大観を、些事にとらわれず、おおまかに表現したもの。大景にふさわしくリズムもゆったりしている。
 許六(きょりく)は、この句を正風体の眼をひらいた句であり、また彼自身「夜の明けたこころがして、はじめて俳諧の本質を知った」(本朝文選・俳諧問答)という。

 向井去来(むかい・きょらい)は、慶安4年(1651年)- 宝永元年(1704)、儒医向井元升の二男として今の長崎市興善町の生まれ。俳諧は貞享元年、其角を通して蕉風に入門。数多い芭蕉の門弟の中で、儒家に生まれ高潔な精神と武士的気概を生きた去来は、芭蕉に篤く信頼され、俳諧の古今集といわれる『猿蓑』を凡兆と共編し、蕉門俳論書を代表する『去来抄』を遺した。「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された。江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。