第十七夜 芝不器男の「寒鴉」の句

  寒鴉己が影の上におりたちぬ  芝 不器男

 この句に出会った最初は、まず中七の「己(し)が影の上(え)に」が読めなかったこと、「己」を「し」と読むのは万葉集など古語にあると漸く知ったこと、「己」と言えば作者自身だと思っていたことから、影の主体がわかりにくいと感じた作品であった。
 
 句意は次のようであろう。
「一羽の寒鴉が冬景色の蕭条とした空から降りてくる。地面には寒鴉の影が生まれ、近づくにつれて影は黒々と際やかになってくる。寒鴉は、その己の影に吸い寄せられるように、ゆっくりと影の上に降り立ったのですよ。」

 影は光によって生まれ、光が当たっていても、人や物が存在していなければ影はできない。光と物(人)と影の三つは、離れることはできないものである。鴉は、エドガー・アラン・ポーの詩『大鴉』からも、「魂」のようであり「悪魔の使い」のように感じることもできる。寒鴉が高い所から降りる瞬間、自身の影に向かって飛び、自身の影の上に降り立ったのは当たり前のようにも思われるが、ペーター・シュミレールの『影をなくした男』という小説もあるように、影があることが当たり前ではないことだってある。

 不器男の描写した一齣一齣がスローモーションの映像となって見えてくる不思議さの中で、無事に降り立った瞬間は、見ている者にとっては何故かほっとする不思議がある。寒鴉が、魂とも言える自身の影と重なったからだ。
 
 芝不器男の研究家でもある飴山實は、不器男を「時間と空間をつくる俳人」と言い、さらに、この時間の処し方が不器男ならではの芸で、外界の時空が不器男の内面で独自の時空に置き換わる「情懐の写生」であるとも言っている。
 
 芝不器男は、明治三十六年愛媛県の生まれ。中学の頃から虚子の句集を愛読しており、短歌のアララギの会員でもあった。大正十四ねん「天の川」の吉岡禅寺洞の下で本格的に俳句を始める。大正十五年に「ホトトギス」に投句した作品〈あなたなる夜雨の葛のあなたかな〉は、翌大正十六年の雑詠句評会で虚子から賞讃されている。