第三百三十三夜 松尾芭蕉の「胡蝶(こちょう)」の句

 大きな台風14号が、日本の南の海上でグイーっと曲がって、どうやら直撃はなさそうである。しかし大きな円のどこまでが余波なのか、降っては止み降っては止み、気温は11月並に急降下している。
 大型犬の黒ラブは、このところ、冬場と同じように私のベッドに乗ってきて背中と背中をくっつけて寝ている。まあいいか、ギブアンドテイクの友だから。

 今宵は、蝸牛社刊の小澤實編著『秀句三五〇選 友』から作品を紹介しよう。

  起きよ起きよ我が友にせんぬる胡蝶  松尾芭蕉 車庸編『己が光』
 (おきよおきよ わがともにせん ぬるこちょう)

 下五の「ぬる胡蝶」は「寝(ぬ)る胡蝶」。
 句意は、一人酒を飲んでいる芭蕉のそばに蝶が寝ているかの如くじっとしている。酔につれて、だんだん一人が淋しくなってきた芭蕉が、蝶よ、起きてくれ、友だちになろうよ、話し相手になってくれ、と、友に呼びかけるように蝶に呼びかけている。
 初案には「独酌」の前書があり、酒を飲みつつ友が恋しくなっていることがわかる。【胡蝶・春】

 編著者の小澤實氏は、本書の解説に、中国の詩人白居易の詩を引用して「友」と「季語」について述べている。
  琴詩酒の友皆我を擲つ 
 (きんししゅのとも みなわれをなげうつ)
  雪月花の時に最も君を憶ふ
 (せつげつかのときに もつともきみをおもう)
は、「友」を詠じた詩として以後の日本文学に大きな影響を与えてきた。季語を代表するとされる雪、月、花が、この詩によって選ばれていること、そしてそれらが「友」と強く結ばれていることは、季語について考える際にも重要なヒントを提示する。つまり「友」と季語とは深い関係にあるのだという。

 私も、そう思う。季語(季題)は、短い俳句という詩にあって、俳句を詠む人とそれを読む人の心を繋ぐ共通の言葉だからだ。それが「友」であろう。
 句会では師の深見けん二から屡々指摘される。「説明を多くしないで、季題に心を託していいのですよ。」と。
 花を詠むとは、花を見て自分の心を描写するのではなく、花の姿を描写し、むろん写生の描写の技によるのだけれど、花の季語があるから、それだけで充分であるという。
 俳句を詠むとき、確かに、月を見ても、蝶を見ても、野の草を見ても、友と会い、友と語っているようである。
 
  ごみための逆さほうきやちりあくた  青山二郎 【雑】
  
 『秀句三五〇選 友』の中の俳句作者の1人として青山二郎が登場するとは思いもよらぬことであった。
 ある時期、私は高浜虚子の俳句を鑑賞する上で能を知りたいと思い、白洲正子の著書をまとめて読んだことがあった。生前住んでいた武相荘を訪れたことも、能楽堂で車椅子に乗って席に向う白洲正子を遠くから拝見したこともある。その白洲正子の美の師匠が青山二郎であった。
 また、ホトトギスの俳人でもある舞踊家の武原はんは、一時期、青山二郎の妻であった。あの、厳しい審美眼をもつ青山二郎の妻であったのだと思った。
 青山二郎の自宅には、小林秀雄、白洲正子、北大路魯山人、宇野千代、加藤唐九郎など多くの人が訪ねてきた。
 
 句意は、鑑定を求める人も含めて多くの人が訪れたのであろう。中七の「逆さほうき」は、長っ尻の客人に「もう帰ってくれないか」というまじない。実際に隅のゴミ箱に立てかけていたのか、17文字に呪いを込めていただけかはわからないが、憎々しげな気持ちは伝わってくる。『青山二郎日記』集中の1句である。【雑】