第三百三十五夜 高浜虚子の「芭蕉忌」の句

 松尾芭蕉が亡くなったのは、元禄7年10月12日。陰暦なので陽暦では11月12日。季語は冬である。しかし虚子は、昭和11年10月12日の句会「笹鳴会」で「芭蕉忌」の作品を投句している。

  芭蕉忌や遠く宗祇に遡る  『五百五十句』昭和11年  
 (ばしょうきや とおくそうぎに さかのぼる)

 句意は、今日は芭蕉の忌日、芭蕉のことを考えていると、室町時代に連歌の黄金期をつくった宗祇にまで思いは遡っていきますよ。【芭蕉忌・冬】

 芭蕉の『笈の小文』の序章に次の文言がある。
 「西行の和歌における、宗祗の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其の貫道する物は一なり。」と。

 1・世にふるも更に時雨の宿りかな  宗祇 【時雨・冬】
 2・世にふるも更に宗祇の宿りかな  芭蕉 【宗祇の宿り=冬の季感】
 
 1句目、宗祇の句である。
 2句目、芭蕉は宗祇の時雨に心を寄せて詠んだ句だが、「時雨」とせず季感として「宗祇の宿り」とした。
 この2句ともに調べがよいので覚えているが、句意が捉えにくかった。
 「世にふる」の「世」とは、室町時代や江戸時代の初期に、西行や宗祇や芭蕉など旅に生きた芸術家や自由人の生活の苦しさ侘びしさのことであろう。そこに「ふる」のは、時雨に掛かる「降る」である。「世にふるも」を、「世に旧るも」とすると、ここでは解釈がしづらくなる。冷たい初冬の時雨が、厳しい旅の宿りをさらに濡らすのである。
 
 時雨は、虚子も好きな季題で、時雨を訪ねて京都へ何度も出かけている。有名な次の「時雨」の作品がある。
 
  天地の間にほろと時雨かな  『六百句』昭和17年
 (あめつちの あわいにほろと しぐれかな)
  
 この作品は、前書「11月22日、長泰寺に於ける花蓑追悼会に句を寄す」があるように、大正10年代の「ホトトギスで、写生の鬼と言われた鈴木花蓑が亡くなった時の弔句である。
 
 『虚子俳話』の「天地有情(三)」から1部を引いてみよう。
 
 「東京の時雨は暗い。京の時雨は明るい。
  東京の時雨は物寂しい。京の時雨は華やかだ。
  晴れた空に、雲もないのに、ほろほろと二粒か三粒の雨が生まれて落ちる。それが京の時雨である。
  「猿蓑」に時雨の句が多い。
  芭蕉は時雨を愛した。
  蕉門一門の人は時雨を愛した。
  俳人は時雨を愛した。
  私も時雨を愛する。特に京の時雨を愛する。
  私は時雨をたづねて、京の西山、北山をさまよった。
  天にも命がある。地にも命がある。
  その間に一粒か二粒の時雨が生まれて、天地の命が動いて、それがほろと落ちる。
  俳諧の命。
  天地有情。」

 句意は、天が堪えきれずに時雨を一滴二滴と落としたとなろうが、「ほろと」がじつに絶妙で、まるで、涙がこぼれるようである。【時雨・冬】