第十九夜 清崎敏郎の「枯芝」の句

  枯芝の人影が去り夕日去り  『安房上総』昭和二十四年
 
 句意は次のようであろうか。
「枯芝に座っていた人は日が暮れると立ち上がって去っていった。やがて一時の黄昏の耀きを終えた夕日も沈んでしまいましたよ。」

 枯芝にいたのは一人なのか二人なのか何も描写されてはいないが、「去り」を重ねた掲句には、人影が去ってから夕日が沈むまでの時間の経過があり、その間の何という静かさであり、夕日が消える前の輝く瞬間の何と美しいことだろう。

 清崎敏郎(きよさきとしお)は、虚子の〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉の句に対して、桜楓社刊『高浜虚子』の鑑賞篇の中で「無表情」という言葉を使っている。ありのままに叙すことで、無論その光景にはユーモアだったりニヒルな感じが出ていたりするのだけれど、句の表面には虚子の無表情が強く印象づけられていると言う。
 客観写生により技を磨き、主観を消し、省略化単純化され削ぎ落とされた平明な言葉が客観描写であり、一見、無表情な措辞となる。敏郎が虚子の作品に感じとった「無表情」は、言語による無心であるが、それは、客観描写により授かった敏郎氏の作品にそのまま感じられたものであった。

 敏郎作品を読んでいくうちに、私は、この「無表情」という言葉がとても気になりだした。
 もう一句、代表句を紹介させていただく。
 
  滝落としたり落としたり落としたり  『凡』平成三年

 「落としたり」を三回繰り返すことで、止まることなく落ちる豊かな水量も滝の落花の長さも十分に伝わってくるから不思議である。「落ちる」でなく「落とす」と他動詞へと変化していることも重要である。敏郎は、滝の流れはもはや滝自身の力ではなく、無心になったとき現れ気づかせてくれる、もっと大いなるものの御業であるという考えに至ったからであろう。

 句集『凡』のあとがきでは、敏郎は「凡」という字について「天地間の万物を包括することを意味するという。そこから全ての事、常のもの、ありふれたこと、世俗的であることなどといった意味がでてくる」と述べている。

 敏郎には三人の師がいる。一人は民俗学者の折口信夫。二人目は富安風生。生涯の師となった富安風生が亡くなられた後は、風生の意志により、大結社「若葉」を率いることになった。
 そして三人目が、高浜虚子である。桜楓社刊『高浜虚子』のまえがきの冒頭には、「虚子先生は、私にとって偶像である。単に俳句の師であったばかりでなく、亦、人生の師でもあった」と書いた。第二句集『島人』のあとがきには、「頭を下げて、体ごとぶちかましてゆくべき胸板を失った空虚感と同時に、これではならぬという、日頃の安易な作句態度を反省させられもした」と書いた。

 昭和五十四年に「若葉」を継承した敏郎は、主宰誌のモットーを「花鳥諷詠」と「写生」とした。虚子から風生へと受け継がれてきた教えを自ら実践し、「若葉」を通して次代へ継ぐことが師である虚子への真の追悼であろう。