第二十夜 武原はんの「落葉」の句

  見うしなふ落葉の中の紅葉かな  武原はん 昭和十四年

 武原はんは、明治三十六(一九〇三)年徳島市の生まれ。十二歳で大阪の大和屋芸妓学校に入学、芸者時代を経て、おはんは東京で更なる舞の精進をして舞踊家となる。はんは、昭和十年頃から虚子の下で俳句を作りはじめ、またホトトギスの「山会」で文章も書くようになった。皆、「おはんさん」と呼んでいた。

 昭和二十五年に発足し昭和三十四年四月に虚子が亡くなるまで五十回続いた「艶寿会」という俳句の会があった。メンバーは新橋芸者の五郎丸や小時、山口誓子の妹で芸者の下田実花、梨園の中村吉右衛門と妻の千代、楠本憲吉、星野立子などで、その中に、武原はんもいた。当時はんは、大阪で人気を誇った芸者を辞め東京の料亭なだ万の副支配人となっていて、同時に上方舞の舞踊家として芸に励んでいた。上方舞というのは、能のように極端に動きを省略した舞である。

 掲句の句意は次のようであろうか。
「光の中を一枚の真っ赤な紅葉が散っている。おはんはその姿を目で追っていたが、やがて地上の落葉の中へ紛れてしまうと紅葉の輝きは消えてしまった。」

 おはんは、光を浴びて赤く輝きながら枝を離れてゆく紅葉に自らの舞姿を重ねた。地に舞い降りるまでが紅葉の勝負であり、地に落ちた紅葉はもう他の紅葉の枯れ色に紛れてしまう。おはんの「舞」も同じで、厳しい修練の中に生まれた美しい型の連続であり、しかも一瞬一瞬で消えてしまう「儚さ」の宿命にある。おはんは「見うしなふ」と詠み、落葉も舞もすべて一瞬の勝負であるから、この一瞬の美を「逃すまじ」というおはんの心意気が伝わるようであった。
 もう一句、代表作を見てみよう。

  雪を舞ふ傘にかくるる時涙  昭和六十年
 
 武原はんの地唄舞「雪」をテレビで観た。男に捨てられて芸妓から尼になった女の別離の哀しみの舞という。舞台中央に白装束で傘を差した姿の何と動きの少ないこと。しかも、涙でさえ顔が傘に隠れたときに流すのだという。
 
 おはんは一生かけて、舞踊家として「観られる自分」の身心を磨き続けた人である。一瞬にして消えてしまう舞姿だけれど、「動く錦絵」とも評されるように、どこでストップをかけられても、一糸乱れぬ美がそこに存在するように、日々鏡に映して血の滲むような稽古を重ねてきた。
 私が白州正子の本を読み漁っていた、ある時、青山二郎とおはんのツーショットの写真に出合った。二人は結婚していたのだと知った時、青山二郎の審美眼に適うほどのおはんを感じた。青山二郎という人は、白州正子に骨董の美を一刻一刻の真剣勝負で鍛えた一人なのだから。おはんの美への追求は、この青山二郎との結婚生活で加味されたのかもしれないと思った。

 おはんは、俳人武原はんではなく、舞踊家武原はんである。
 芸者で磨いた人の心の綾も、俳句や文章で磨いた客観的視点や感性も、美術家青山二郎との結婚も、写経で静観な心を得たことも、それらの全てが一体となって舞の美へと収斂した。