昨夜、河東碧梧桐の妻茂枝の兄の青木月斗を紹介しているうちに、碧梧桐の初期の頃の作品に触れてみたくなった。碧梧桐は7歳の時に、兄を訪ねてきた正岡子規と初めて出合っている。その時の子規の、横に切れた目と、への字に曲がった口元に、打たれたような威厳を感じた碧梧桐はその後、中学校で同級の高浜虚子とともに、子規を追い、子規に師事して俳人としての道を進むことになった。
今宵は、碧梧桐俳句の前半の、作品を紹介してみよう。
赤い椿白い椿と落ちにけり 『新俳句』明治29年
椿というと、まずこの作品が浮かぶほどで、落椿がこれほど好きになったのは碧梧桐の句を知ってからである。
句意は、赤椿の樹下には赤い椿が、白椿の樹下には白い椿が一円をなして、上向きに落ちている、となろうか。
他の言葉は一切省略しきったことによって、眼前の「椿」という「もの」だけに焦点が当てられている。これを正岡子規は、「印象鮮明」な句とし、写生論の一頂天であるとした。
子規は、皆を指導するようになる以前から、広く古今の俳諧を知るために、俳諧から発句を取り出しては季題別に類題別に俳句分類を暇さえあれば書き写していた。
そうした中で、芭蕉の格調の高さに出合い、蕪村の絵画的、客観的な句にも出合った。また、画家の中村不折(なかむらふせつ)や浅井忠(あさいちゅう)との交友から得た写生の妙味を、子規の考える俳句革新の柱にしようと考えた。
明治28年、全国版である日本新聞の日本俳句欄で正岡子規が選者となって、そこへ投句してくる子規の弟子たちの作品を褒めて宣揚すると、やがて碧梧桐や虚子の二人も俳人として、全国的に有名になっていった。
日本新聞で「明治二十九年の俳句界」という記事の中に二人も取り上げられた。
子規の挙げた碧梧桐の特色は次のようであった。
「碧梧桐の特色とすべき処は、極めて印象の鮮明なる句を作るに在り」と。【椿・春】
凧百間の糸を上りけり 『春夏秋冬』明治32年
(いかのぼり ひゃっけんのいとを のぼりけり)
面白い発想である。凧揚げは、糸を繰り出して風の力で凧が上へ上へと揚がっていくものだが、この作品は、百間・・一間が凡そ1・8メートルだから180メートルもの長さ、高さを、凧が自ら糸をのぼってゆくというのだ。
こうした捉え方があるのだと愉快になった。【凧・春】
この道の富士になり行く芒かな 『春夏秋冬』明治34年
富士の裾野は一面の芒野が広がっている。芒しか見えない道をかき分けかき分けゆくが、やがて富士山を登っていることに気づく。「この道の富士になり行く」から、一歩一歩と富士山頂を目指す心意気が伝わってくる。碧梧桐は、この明治34年7月に虚子たちと富士山に上っていた。【芒・秋】
空をはさむ蟹死にをるや雲の峰 『続春夏秋冬』明治39年
(くうをはさむ かにしにをるや くものみね)
光景を想像してみると、砂浜の地べたからのアングルであることがわかる。死んだ蟹は、動かない鋏を空へ振り上げたままだ。その遥か彼方には雲の峰がある。「空(くう)をはさむ」は「空をつかむ」をもじったもの。
雲の峰の勢いと、空をつかもうとしている死んだ蟹のハサミの虚しさとの対比であろう。【雲の峰・夏】
今回は、子規から「印象鮮明」な句であると褒められた明治29年から、子規の没後に始まった全国旅行「三千里」の旅の中で、大須賀乙字から「新傾向」の句と呼ばれるようになった明治39年までの作品である。
この後の碧梧桐は、無中心論、季題軽視、定形否定、ルビ付き、と、俳句の型を変えて進んで行くが、ルビ付き俳句以外では、もう一回は紹介してみたい内容の作品もある。