第三百四十一夜 大伴大江丸の「蘭」の句

 蝸牛社のシリーズの、渡辺恭子編著『秀句三五〇選 香』の中で、江戸時代中期の俳人・大伴大江丸の作品に出合った。見たことのある名前だったので『俳文学大辞典』で調べてみた。
 飛脚問屋として日本一というほど手広く商売した人物であった大江丸は、諸国を巡り、多くの俳人たちと交わっていた。古希となり仕事を退いてからは俳諧に没頭し、句集『俳懺悔』や『俳諧袋』を纏めたという。
 寛政7年(1795)以降は、大伴大江丸と号し、独自の軽妙洒脱な作風を鮮明に出し、西国行脚中の小林一茶にも影響を与えた。この時代に83歳まで俳句に悠遊できたことは誠に幸せな人生であったろう。
 
 今宵は、江戸時代中期の俳人なので、さぞ軽妙な作品かと思っていたが、真っ先に出合ったのが次の句であった。紹介させていただこう。

  月落ちてひとすぢ蘭の匂ひかな  『秀句三五〇選・香』   
 
 「月落ちて」とは、新月のこと。暮れなずんだ西の空に手裏剣のごとく細い月が輝くように出たと思うと、すぐさま西空へと落ちてしまった。細月がひとすじの命となって西空へ消えてゆく頃、細月を追うかのように、鉢植えの蘭の花から高貴な香りがひとすじ漂ってきた。細月の落ちる一筋と蘭の香の流れの一筋の2つが、見事に照応した作品である。【蘭・秋】
 
  けしの露たしかに置いて哀也  号・旧国
 (けしのつゆ たしかにおいて あわれなり)

 この作品は、『俳文学大辞典』の大伴大江丸の項目の中に、短冊の写真が載っていたものである。「大伴大江丸」と号する前の「旧国」であったので、ここに紹介してみた。しかし句意もむつかしい。

 「けしの露」は、芥子の花に宿った露であろう。芥子の花には上品なすっきりした美しさがある。
 だが昭和30年代の頃、芥子からアヘンが採れるということで、栽培は禁止されたと思う。私の父が、この美しい芥子の花が好きで庭に植えていたが、ある日、役人がやってきて全部抜いてしまったことを憶えている。私が小学生低学年のころだから、60年以上前になる。

 掲句では、芥子の花の台(うてな)に、たしかに露が置かれていたという。大江丸は、その一滴の露に「哀れ」を感じたのだ。なぜだろうか。
 自然の美しさ、ここでは芥子の花であるが、自然の中の美しさに触発されて生じる、しみじみとした情感である「もののあわれ」の「哀れ」であろうか。【露・秋】

 紹介した2句は、後年に得たという境地の軽妙洒脱の作品ではない。『俳懺悔』の句を見てみよう。

  秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

 「秋来ぬと目には目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」は『古今集』にある、三十六歌仙の一人の藤原敏行の有名な歌である。この歌は、風の音に秋の訪れを感じたもの。一方、和歌をもじった、俳諧の大伴大江丸は、莢豆(さやまめ)が薄緑色となって、ふっくらとした豆の姿に「秋が来た」と捉えたのであった。誰もが知っている有名な歌の本歌取りであるが、滑稽の中に品がある。【秋・秋】

 大伴大江丸(おおとも・おおえまる)又は(おおともの・おおえまる)は、享保7年(1722)- 文化2年(1805)、大坂出身。江戸時代中期の俳人。姓は安井。名は政胤。幼名は利助。隠居後は宗二。通称は善兵衛。号は芥室・旧国・旧州など。晩年に大伴大江丸と号する。飛脚問屋・嶋屋の主人で、家業上諸国を旅をし、交際が広く、筆まめで、長寿でもあったので、紀行文、随筆、発句などは莫大な数にのぼる。なかでも『俳懺悔』と『俳諧袋』は、大江丸の作品や心境を知るだけでなく、当時の俳壇の記録としても貴重な資料であるという。作風としては京都の蕪村派の影響を受けているが、のちに江戸の大島蓼太に私淑し、著書においても蓼太を師として敬っている。