第三百四十二夜 京極杞陽の「震災忌」の句

 今宵は、2度目となるが、ホトトギスの俳人京極杞陽の「震災忌」の作品から紹介してみよう。

  わが知れる阿鼻叫喚や震災忌  昭和33年
  電線のからみし足や震災忌  

 関東大震災で一度に祖父母、父母、弟妹を失ったショックは大きく、周囲も気を使ったが、杞陽も自ら語りたがらなかった。震災を詠んだのは45年余り経った昭和33年になってからという。2句ともに「ホトトギス」の巻頭となった。   
 俳句より先に、昭和15年8月号「ホトトギス」に書いた文章によると、杞陽は、次のような心の「闇」も抱えていた。
 「震災の日、東京の空に現れてゐたあの奇怪な凝り輝いた入道雲の下は、夜のような闇だつたのだ。(略)赤い明るい火の世界に黒く小さく乱れ狂つて人々は死んで行つた。」
 
 1句目は、15歳の杞陽が目の当たりにした、おそらく瞬きもせずに眺めた光景を「阿鼻叫喚」と大きく捉えた。
 2句目で、思い出すのも怖ろしい光景、文字にするのも辛くおぞましい光景を、杞陽は真っ向から描写した。
 
 京極杞陽(きょうごく・きよう)は、明治40年に東京市本所区亀沢町の旗本屋敷で生まれた京極家の長男で、兵庫県豊岡藩主14代当主(子爵)である。大正12年の関東大震災に遭遇し、生家は焼失し、祖母、父母、弟妹2人を同時に失う。生き残ったのは姉と2人で、杞陽は当時15歳であった。昭和5年に東京帝国大学文学部へ入学し同9年に卒業。その前年の昭和8年、大和郡山藩主の伯爵柳沢家の長女昭子と結婚した。昭和10年にヨーロッパへ遊学、そこで虚子と運命的な出会いをし、ドイツで出席した虚子の歓迎句会で〈美しく木の芽の如くつつましく〉を詠んだ。

  春風や但馬守は二等兵  昭和19年
  大衆にちがひなきわれビールのむ  昭和19年
  師より吾に蒲団かぶるな起きよと文  昭和21年

 豊岡藩主但馬守(たじまのもり)であり子爵である杞陽もまた、戦争へ召集された。
 1句目の「但馬守は二等兵」、2句目の「大衆にちがいなきわれ」には時代の変遷を肯わざるを得ない気持が出ている。戦後には子爵の身分も貴族院もなくなった。戦前に貴族院議員へ当選したことで、既に宮内省を辞していた杞陽は、貴族院も廃止されてしまったことから胃潰瘍にもなり、精神的にかなりきつい状況であったと思われる。
 3句目、そんな杞陽を励ます師虚子からの便りが届いた。虚子は葉書に短い走り書きの便りを門人達に、まめに書いていたという。

  月一つ見つづけて来しおもひあり  昭和38年
  虚しきが故に虚子忌に参ずなり  昭和43年

 宮内省に勤務している間は、昭和天皇のことを俳句に詠むことはなかった杞陽である。
 1句目、昭和天皇が山陰行幸の折に豊岡駅に奉迎拝謁した折、天皇陛下から御言葉を賜った時の感懐である。「現人神」であった時代から昭和天皇にお仕えしていた杞陽は、おそらく時代が変わっても同じ気持ちを抱きつづけていたのだったのであろう。
 2句目、虚子に対しても、生涯変わることなく師として尊敬し続けた杞陽である。戦前戦後、虚子の晩年まで虚子と多く行動を共にしていた。
 
 昭和34年4月8日、虚子が亡くなった後、杞陽は久しぶりに「虚無感」に襲われたという。
 杞陽の一生は、虚子に対して常にどこか「つつましく」控えていたように感じられる。虚子との出会いの衝撃的な句の「木の芽の如くつつましく」は、奇しくも杞陽の生涯の有りようを自ら捉えた措辞であったのだ。