第三百四十八夜 水島直光の「踊り」の句

 水島直光さんが、深見けん二主宰の「花鳥来」と「花鳥来」の小句会「青林檎」に入っていらしたのは、平成7年である。第1句集『風伯』の序文に「花鳥来」に入会された経緯が書かれているが、直光さんは、高校の国語の先生で昼間は例会には出席できないので、夜の「青林檎」、夜の虚子『五百句』研究の輪講に先ず参加された。
 そこで、ご一緒した直光さんは、後から入ったとは言え、俳句も虚子研究でも、私の方は教えていただくばかりであった。
 古書の集め方、俳句文学館での資料収集の凄さは、当時の編集長の小泉洋一さんも同様で、何かとお世話になった方である。

 今宵は、句集『風伯』と最近の季刊俳誌「青林檎」から紹介してみよう。

  指先のその先を見て踊りけり  『風伯』  

 祭りの盆踊りの景であろう。踊りは指先をきちんと揃えて、しかも人差し指は確かにどこかを指しているようだ。「その先を見て」の措辞が、指のその先に見ているのは夜空であると思ってしまえば、それで済むことであるのだが、作者の直光さんにもはっきりとはしない「何かを見ている」と感じたのであろう。そこが不思議であり妙なる空間であり、誰もが自由に思いを馳せることができる言葉である。
 踊り手は、同じ身振り手振りで進んでゆくが、「その先を見て」踊っていると思うと心が和んでくる。
 
 高浜虚子は、俳句は極楽の文学である、と言った。能楽を例にとって次のように説明をしている。
 「能楽には舞というものが付き物である。悲惨な人生を描いたものであっても、その悲惨に終わった主人公が必ず(多く)舞を舞う。何故舞を舞うかというと、これに依って救われたことを意味するのである。」と。(『俳句への道』より)
 
 古来から続いている祭りの踊りもまた、このような意味が込められていたのではないだろうか。【踊り・秋】

 次の2句は最新の令和2年の「青林檎」から、「風」を詠んだ作品をみてみよう。

  入相の敗荷風に音を立て  「青林檎」秋・50号 
 (いりあいの やれはすかぜに おとをたて)

 入相は夕暮れのこと。私の住む茨城県南から利根川を越えて直ぐの、千葉県の手賀沼の蓮をよく見にゆくが、確かに、夕暮れ近い時間の蓮葉は大きく揺れ、ときには渦を巻くほどに揺れていることがある。
 秋になり、蓮葉は枯れて敗荷となって、葉も茎も固くなっている。夕暮れの風が強く吹くと、敗荷は揺れてぶつかり合い、乾いた音を立てはじめる。
 「入相の敗荷」と詠んだことによって、夕暮れの破れ蓮が、惨めに破れた姿であることを忘れ、「入相の鐘」を聴いているかのごとく優雅さを帯びた音色となって沼に響きわたっているのだ。【敗荷・秋】

  風花や道は峠にさしかかり  「青林檎」冬・51号

 風花は、晴天にちらつく雪であり、尾根を越えてくる風にともなわれて降ることもある雪である。「道は峠にさしかかり」から、風花に出合った作者の直光さんは、そろそろ峠に近づいたことを知った。
 「さしかかり」の五文字の働きの、なんと的確な表現の上手さであろうか。【風花・冬】

 水島直光(みずしま・なおみつ)は、昭和29年(1954)、福井県福井市生まれ。昭和55年、濱田波川に師事。現在、「花鳥」(坊城俊樹主宰)、「ホトトギス」(稲畑汀子主宰)、「花鳥来」(深見けん二主宰)、「秀」(染谷秀雄主宰)会員。「木曜会」と同人誌「青林檎」に参加。俳人協会会員。日本伝統俳句協会会員。